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== 生涯と業績 ==
生年は寛永12年([[1635年]])- 20年([[1643年]])の間で諸説あり、はっきりしない。生誕地は[[上野国]]藤岡(現在の[[群馬県]][[藤岡市]])と[[江戸]](現在の[[東京都]])の2説ある。実父が寛永16年に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。関の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子
若くして関家の養子となる。幼少時から[[吉田光由]]の『[[塵劫記]]』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。[[甲斐国]][[甲府藩]]([[山梨県]][[甲府市]])の[[徳川綱重]]・綱豊([[徳川家宣]])に仕え、勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。孝和は甲府藩における国絵図([[甲斐国絵図]]<ref>孝和が作成に携わった甲斐国絵図は[[17世紀]]後期に成立したと考えられているII型図([[山梨県立博物館]]学芸員高橋修による分類)で、[[甲府徳川家]]家中において領内統治のために作成された。正保国絵図の影響を受け、甲斐独自の地域区分である[[九筋二領]]などの情報を盛り込んだものと評価されている。甲斐国絵図については高橋修「近世甲斐国絵図論序説-山梨県立博物館所蔵甲斐甲斐国絵図との対話-」『山梨県立博物館研究紀要』(第2集、2008)を参照</ref>)の作成に関わり、また[[授時暦]]を深く研究して[[改暦]]の機会を窺っていたが、その後[[渋川春海]]によって[[貞享暦]]が作られ、[[暦学]]において功績を挙げることは叶わなかった。
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関は和算が[[中国]]の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に[[宋 (王朝)|宋]][[金 (王朝)|金]][[元 (王朝)|元]]時代に大きく発展した[[天元術]]を深く研究し、根本的な改良を加えた。[[延宝]]2年([[1674年]])に『発微算法』を著し、'''点竄術'''(てんざんじゅつ)すなわち[[筆算]]による[[代数学|代数]]の[[計算]]法を[[発明]]して、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。世界で最も早い時期に[[行列式]]・[[終結式]]の概念を提案したことはよく知られる。
また暦の作成にあたって[[円周率]]の[[近似値]]が必要になったため、[[1681年]]頃に正131072角形を使って[[小数]]第11位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159265359微弱」<ref>中村佳正編『可積分系の応用数理』第6章、[[裳華房]]、2000年、ISBN 4-7853-1520-2には「3.1415926535微弱」と書かれているが、村田全「日本の数学 西洋の数学」によれば「3.14159265359微弱」と書かれている。関の「括要算法」巻四には「三尺一寸四分一厘五毛九糸二忽六微五繊三沙五塵九埃微弱」の記述が見られる。</ref><ref>微弱は桁の丸め方を示す言葉である。関の「天文数学雑著」によると「九以上収めて一としこれを微弱という、五以上収めて一としこれを弱という」</ref>だったが、[[エイトケンのΔ2乗加速法]]を用いた途中計算では小数点以下第16位まで正確に求め
西洋の[[微分積分学]]の発展とは独立に、[[方程式]]の求根の際に[[導関数]]に相当するものを計算したり、求長
宝永5年10月24日([[1708年]]12月5日)、病に倒れて死去した。[[牛込]][[弁天町 (新宿区)|弁天町]](現在の東京都[[新宿区]])の浄輪寺に葬られている。弟子に[[建部賢弘]]や[[荒木村英]]がいる。関の死後
関孝和は関流の始祖として、'''算聖'''と崇められた。[[明治]]以後、和算が数学にとって代わられた後も、'''日本数学史上最高の英雄的人物'''とされた。[[上毛かるた]]
== 点竄術 ==
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