「池田利隆」の版間の差分

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山崎屋 (会話 | 投稿記録)
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| 父母 = 父:[[池田輝政]]、母:[[中川清秀]]の娘・糸姫
| 兄弟 ='''利隆'''、[[池田忠継|忠継]]、[[池田忠雄|忠雄]]、[[池田輝澄|輝澄]]、[[池田政綱|政綱]]、[[池田政綱|政綱]]、[[池田政虎|政虎]]、<br />[[池田輝高|輝高]]、[[池田利政|利政]]
| 妻 = 正室:[[榊原康政]]の娘・[[鶴姫 (福院)|鶴姫]]([[徳川秀忠]]の養女)<br />婚約者:[[北条氏直]]の娘<ref>母は[[督姫]]、1602年卒。長女であれば1584年生まれだが次女だという説もある。</ref>
| 子 = '''[[池田光政|光政]]'''、[[池田恒元|恒元]]、[[池田政貞|政貞]]、長姫([[山内忠豊]]正室)
| 特記事項 =
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慶長5年([[1600年]])9月の[[関ヶ原の戦い]]に父と共に参戦。慶長8年([[1603年]])2月、異母弟の[[池田忠継]]が[[備前国|備前]][[岡山藩]]主に任じられたとき、幼年の忠継<ref>このとき忠継は5歳だった</ref>に代わって執政代行として3月に岡山城に入った。利隆は岡山藩では実質的な[[藩主]]として藩政を担当し、慶長9年([[1604年]])には慶長検地と呼ばれる領内検地を実施した<ref>この慶長検地で私徳(小作料)が否定されて江戸時代の近代的本百姓体制が整備された</ref>。また兵農分離を行ない、岡山の前領主であった[[宇喜多秀家]]や[[小早川秀秋]]らの夫役の廃止など、江戸期における近代的体制の確立が行われている。
 
慶長10年([[1605年]])、[[従四位下]][[侍従]]に叙任され[[右衛門督]]を兼任した。ただし、このときは豊臣姓であった。<ref>村川前掲書、38頁。</ref>同年に[[徳川秀忠]]の養女・[[鶴姫 (福院)|鶴姫]]([[榊原康政]]の娘)を正室に迎えて幕府との関係を深めた。慶長12年([[1607年]])6月2日、[[武蔵国|武蔵守]]に転任し、[[松平姓]]を賜り「'''松平武蔵守利隆'''」と名乗った。<ref>村川前掲書、93頁・103頁。</ref>慶長18年([[1613年]])1月、父の輝政が死去したため、6月に[[家督]]を継いだ。この時、西播磨3郡([[宍粟郡]]・[[佐用郡]]・[[赤穂郡]])10万石を弟の忠継に分与したため、姫路藩の所領は42万石となった<ref>これは幕府が[[池田氏]]の勢力を弱めるために領地を分与させたといわれる</ref>。
 
=== 大坂の役と最期 ===