「ラーコーツィ・ジェルジ2世」の版間の差分
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[[ハンガリー]]の[[シャーロシュパタク]]に生れ、父の存命中の[[1642年]][[2月19日]]にトランシルヴァニア公に選出され、[[1643年]][[2月3日]]に[[バートリ家]]出身の[[バートリ・ジョーフィア]]([[:hu:Báthory Zsófia]])と結婚した。ジョーフィアは結婚に際し、姑のジュジャンナによって無理やり[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]から婚家が信仰する[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]に改宗させられた。ジョーフィアは[[1645年]]、後継ぎ息子の[[ラーコーツィ・フェレンツ1世]]をもうけた。
1648年10月に父の後を継いで即位すると、まず父の[[ポーランド王国|ポーランド]]遠征の野心を実現しようと考えた。ポーランドへの侵攻を見据え、ジェルジ2世は[[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン]]・[[ボフダン・フメリ
ジェルジ2世は[[クラクフ]]を占領し、スウェーデン軍と共に[[ワルシャワ]]に入城したが、まもなく形勢不利に陥った同盟者達はポーランドからの撤退を始めた。7月、ジェルジ2世の軍勢は[[チャルヌィ・オストルフの戦い]]でポーランド軍に敗北、ポーランドからは[[捕虜]]とせずにそのままトランシルヴァニアに帰されるといった最大の屈辱を味わった。そして11月3日、[[オスマン帝国]]の命令を受けたトランシルヴァニア議会から不面目な戦争を行った責任を取らされ廃位され、[[フェレンツ・レーディ]]が即位した。しかし翌[[1658年]]には、[[メディアシュ|メジェス]]で開かれた議会でジェルジの復位が宣言され公位に復帰した。
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