「ウラジーミル1世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
rvウクライナPOV。 「名称の日本語表記」:伊東・井内・中井 (1998), p.99 ^ 黒川 (2002), p.38には「ヴォロディームィル」なんて書いてませんよ。
2行目:
| 人名 = ウラジーミル1世
| 各国語表記 = Володимѣръ Свѧтославичь
| 君主号 = キエフ・ルーシの大公
| 画像 = Vladimir1000 byVladimir klodt2.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = [[キエフノヴゴロド]]にある大公[[ロシア1000年記念碑]]の銅像
| 在位 = [[980年]](又は[[978年]][[6月11日]]<ref name="iakov">[http://www.golubinski.ru/history/pohvala.html ''Память и похвала князю русскому Володимиру, како крестися Володимир и дети своя крести и всю землю Рускую''], ПВЛ. Год 6360 (852).</ref> - [[1015年]][[7月15日]]
| 戴冠日 =
| 別号 = [[ノヴゴロド]]の公(970年頃‐988年)
| 全名 =
| 出生日 =
38行目:
}}
[[ファイル:St_Volodymyr_statue.jpg|right|150px|thumb|[[ロンドン]]にあるウラジーミル1世の像]]
'''ヴォロディームィル1世'''({{lang-orv|Володимѣръ Свѧтославичь}}、[[ウクライナ語]]:''Володимир Святославич'')、'''ウラジーミル1世'''([[ロシア古東スラヴ語]]:{{lang|sla|'''ВладимирВолодимѣръ СвятославичСвѧтославичь'''}}、[[955年]]頃 - [[1015年]][[7月15日]])は、[[リューリク朝]]、[[キエフ大公国]]の[[キエフ大公]](在位[[978980年]]頃<ref>[[6月11日原初年代記]] -, [[1015年世界創造紀元|ビザンティン暦]]6488年(=[[7月15日西暦]]980年</ref> - 1015年)。「聖公」と呼ばれる。[[スヴャトスラフ1世]]と侍女マルーシャの子。子には[[ヤロスラフ1世]]や[[ボリスとグレブ|ボリスとグレプ]]がいる。キエフ大公国を[[キリスト教]]化した。[[キリスト教]]([[正教会]]・[[カトリック教会]]・[[聖公会]]・[[ルーテル教会]])の[[聖人]]で、[[亜使徒]]・聖公ウラジーミルと呼ばれる。祭日は[[7月15日]]([[7月28日]])。ヴォロディームィル太公、ヴォロディームィル聖公、赤日のヴォロディームとも呼ばれる
 
== 前半生 ==
父スヴャトスラフ1世存命中から[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド]]公に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後、長兄[[ヤロポルク1世|ヤロポルク]]と次兄オレーグが争うと、[[977年]]ウラジーミルは[[スカンディナビア]]へ逃亡した。[[980年]][[ノルマン人]]([[ヴァリャーグ]])人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、[[大公]]として即位した。その過程で、[[ポロツク]]を滅ぼし、公女[[ログネダ]]を略奪して妻とした。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。モスクワの東に位置する[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の町やヴォルィニ地方のウラジーミルは彼が建設したとされる。[[内政]]においては、ノルマン系の[[ルーシ族|ルス族]]の植民を奨励する一方で、980年頃、[[ルーシ]]に伝統的な異教信仰を基盤に据えた国制改革を行ったとされる。伝統的なルーシの異教信仰に近隣諸民族の神を加えた大規模な祭祀を行ったが失敗した。こうして、数年後の[[キリスト教]]導入に至る。[[987年]]に10人の家来たちに各宗教を調査させた報告を聞き、また祖母オリガの[[洗礼]]に続き、[[988年]]に彼も洗礼を受けた。そして異教の[[偶像破壊|偶像を破壊]]するよう命じた<ref>[[黒川知文]]『ロシア・キリスト教史』[[教文館]]</ref>。
 
なお修道士ヤコフ・ムニフ([[:ru:|Иаков Черноризец|Иаков Черноризец]])によると、キエフ大公に即位したのは978年7月11日である<ref name="iakov"/>。
 
== キリスト教導入後 ==