「原田宗時」の版間の差分

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'''原田 宗時'''(はらだ むねとき、[[1565年]]([[永禄]]8年)- [[1593年]]7月([[文禄]]2年))は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[陸奥国|陸奥]]・[[出羽国|出羽]]の[[戦国大名]][[伊達氏]]の家臣。父は山嶺安長源市郎。幼名虎駒。通称左馬之助。原田氏の祖は伊達氏初代[[伊達朝宗|朝宗]]に仕え、伊達氏累世の宿老家である。
 
 
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天正19年[[1591年]]伊達家が奥州再仕置きによって米沢を召し上げられ、岩出山に移封となると、宗時も[[原田城]]から離れ政宗に従った。
 
文禄元年[[1592年]]、秀吉より[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]を命ぜられ、政宗に従って渡海する。だが翌年の文禄2年([[1593年]])[[釜山]]にて病を患ってしまう。御暇を賜い帰船したが病が益々重くなり釜山浦近くの島に滞留して[[対馬国]]まで戻ったが、そこでついに病した。あるいは釜山浦で死去したという<ref>これより先、同じく伊達家臣の[[桑折政長]]も病にて釜山浦で没しているこのとき政宗はとても落胆し、母に手紙を送付している。また、同じ頃病を患い帰船した原田宗時のことも心配しその身をあんじていた。政長は[[桑折宗長]]の嗣子で桑折家当主。桑折政長の妻は、伊達政宗の側室の[[飯坂の局]]の姉である享年29</ref>
。享年29。
 
政宗は原田宗時のあまりにも早すぎる訃報を知り、御嘆きのあまり、彌陀の名号を御句の上に置いた『国風六首』を詠じた。
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*吹ハラフ嵐ニモロキ萩カハナタレシモ今ヤオシマサラメヤ
 
死後、宗時には嗣子がいなかったので、政宗の命により、[[桑折宗長]]の末子、弁慶<ref>弁慶は[[伊達治家記録]]によると、桑折宗長(点了斎)72歳の子としているが、桑折家系図では宗長の父[[桑折貞長]]の五男と記録されている。つまり、桑折宗長の兄弟であり、原田宗時の叔父にあたる</ref>が養子に命ぜられ、[[原田宗資]]<ref>江戸時代の寛文年間、宗資の子の[[原田宗輔]]は[[仙台藩]]の[[家老]]を務めたが、[[伊達騒動]]にて死去し、責任を取って原田家は断絶させられた。後に再評価がなされるまで、長きに渡って藩政を牛耳った悪家老しての汚を残した乗る</ref>
と名乗る。
 
 
原田氏が宗時の代まで居城した[[原田城址]]には原田氏の愛木である樅の古木が立ち並んでいる。