「オットー4世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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しかし、即位後に大規模な[[イタリア遠征]]を計画したため、教皇と対立して[[破門]]され、ドイツ[[諸侯]]の支持を失ってしまう。更に[[成人]]したフリードリヒ2世を皇位に推す[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]と対立して叔父のイングランド王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]と協力して争うが、[[1214年]][[7月27日]]に[[ブーヴィーヌの戦い]]でフランス軍に大敗する。諸侯に完全に見放されたオットー4世は翌1215年、廃位の上に追放され、1218年に[[ブラウンシュヴァイク]]で病死した。遺体は甥の[[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー1世]]によって、ブラウンシュヴァイク大聖堂に葬られた。
 
1214年[[4月19日]]に[[ブラバント公]][[アンリ1世 (ブラバント公)|アンリ1世]]の娘[[マリア・フォン・ブラバント|マリア]]と再婚するが、2度の結婚で子がなかったため、甥の[[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー]]が遺領を継いで[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家]]の祖となった。
 
{{神聖ローマ皇帝|14代|1198年 - 1215年}}