「ライモンド・モンテクッコリ」の版間の差分

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[[1647年]]に[[大将]]に昇進し、[[ヴェストファーレン条約]]が締結されてからは皇帝[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]の委任を受けてスウェーデンやイギリスへの外交使節団に加わった。[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]にも引き続き仕え、第一次[[北方戦争]]が勃発すると、モンテクッコリは[[元帥]]としてスウェーデン軍と戦い、[[1661年]]から[[1664年]]の[[オスマン帝国]]との戦争では神聖ローマ帝国軍の司令官に任官される。1664年の[[セントゴットハールドの戦い]]でオスマン帝国に勝利した功績が評価されて、神聖ローマ帝国軍総司令官、軍事参議院議長に任命された。[[金羊毛騎士団]]員にも叙任されている。
 
[[1667年]]の[[ネーデルラント継承戦争]]においては軍司令官として指揮統率し、フランス軍を[[ライン川]]対岸に撃退することに成功した。[[オランダ侵略戦争]]にも参戦、フランス軍とドイツで交戦した。特に[[1673年]]の会戦においては[[機動]]の模範として後の[[軍事学者]]からその[[戦術]]が高く評価された。その後の余生は戦場に赴くこともなく、オーストリア軍の改革と趣味の研究に費やし、1680年に死去した。息子のレオポルト・フィリップもオーストリア軍の将軍として仕えた。
 
== 参考文献 ==