「大秦景教流行中国碑」の版間の差分

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[[431年]]に[[エフェソス公会議]]で異端として禁止されたネストリウス派は、[[西アジア]]・[[中央アジア]]に伝播。そのころ[[唐]]は西方に国威を伸長しており、[[635年]]([[貞観 (唐)|貞観]]9年)[[阿羅本]]という者が始めて景教を中国に伝えた。それから約150年間、不遇の時代もあったものの王朝の保護もあり隆盛。[[781年]]([[建中 (唐)|建中]]2年)に中央アジア[[バルフ]]出身で唐に登用された伊斯という人物がこの記念碑を長安の[[大秦寺]]に建立、景教の教義や中国伝来の歴史を残した。しかし、[[9世紀]]半ばに即位した[[武宗 (唐)|武宗]]は[[道教]]に傾斜し、[[仏教]]をはじめ他の宗教を弾圧([[会昌の廃仏]])。景教も例に漏れず弾圧を受け、多くの大秦寺が破壊される。その際に碑は土中に埋没したと考えられている。
 
出土したのは、埋没から約800年後の[[明]]末の長安。異説もあり年代ははっきりしないが、[[1623年]]([[天啓 (明)|天啓]]3年)または[[1625年]]([[天啓 (明)|天啓]]5年)出土というのが有力。明末の陽瑪諾(洋名Emmanuel Diaz)の『唐景教碑頌正詮』の序には「大明天啓三年」と記すある。出土の状況は、[[ポルトガル]]の[[イエズス会|イエズス会士]]セメド([[:en:Álvaro Semedo|Álvaro Semedo]]、漢名魯徳照)の『支那通史』<ref>Semedo; The History of China. p. 157。</ref>に記されている。それ出土から30年足らずで少なくとも3ヶ国語8種類の碑文の西洋語訳が出るなど、即座にヨーロッパに紹介された。石碑は長安の金勝寺境内に碑亭を建て安置されていたが、[[1860年代]]にこの地方で[[回教徒]]による騒乱が起き、金勝寺が焼払われ碑亭も失われてしまう。その後西安碑林に運ばれ、現在はその碑林を母体とする[[西安碑林博物館]]が所蔵している。日本にはその模造碑が[[高野山]]奥院と京都大学の2ヶ所にある。
 
[[ファイル:Nestorian stele 1.jpg|thumb|200px|碑首(題の上部に十字が彫られている)]]