「井原西鶴」の版間の差分

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[[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年)10月、浮世草子の第一作『'''[[好色一代男]]'''』を出板。板下は西吟、挿絵は西鶴。好評だったのか板を重ね、また翌々年には挿絵を[[菱川師宣]]に変えた江戸板も出板、[[1686年]]([[貞享]]3年)には師宣の絵本仕立にした『大和絵のこんげん』と『好色世話絵づくし』も刊行された。さらに『一代男』の一場面が描かれた役者絵が残っていることから、歌舞伎に仕組まれたこともあるようだ。
 
以後、後に『一代男』とともに'''好色物'''と括られる『諸艶大鑑』([[1684年]])、『[[好色五人女]]』([[1686年]])、『[[好色一代女]]』(同年)が立て続けに書かれるが、それから方向転換して、いわゆる'''雑話物'''や'''武家物'''と呼ばれるジャンルの物に手を染めるようになる。この変化から、好色本の禁令が出たのではないかという考えもあるが<ref>『浮世草子目録』(『[[新群書類従]]』第七)貞享三丙寅年「西鶴が超凡雄健の筆になりし好色本は、流行其極に達し、翁が最得意の全盛期なりしに、本年遂に好色本差止の令は當路の有司より下されぬ」</ref>、『色里三所世帯』([[1688年]])や『好色盛衰記』(同年)また遺稿の『西鶴置土産』など好色物は書き続けられているので、その説は信じがたく、またそのような禁令があったという証拠も存在しない。
 
[[1683年]](天和3年)正月、役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を刊行(現存するのは巻二巻三のみ)。[[1685年]]には浄瑠璃『暦』をつくる。この作品は、浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のために書かれたもので、自分の許を飛び出し道頓堀に竹本座を櫓揚げした[[竹本義太夫]]を潰すために、京都から一座を引き連れて乗り込んだ加賀掾が西鶴に依頼した作品。敗北した加賀掾はさらなる新作を依頼し、西鶴は『凱陣八島』をもって応え、対する義太夫側は当時まだ駆け出しの[[近松門左衛門]]の新作『[[出世景清]]』で対抗。今度は加賀掾側に分があったが、3月24日に火事にあい<ref>『土橋宗静日記』</ref>帰京したという。この道頓堀競演については西沢一風の『[[今昔操年代記]]』に記されている。なお、『歌舞妓始記評林』([[1775年]])に「往古の狂言作者には西鶴、杉三安、安達三郎左衛門、金子吉右衛門等ありといへども」とある。これについては西鶴による歌舞伎台本が残っておらず、また100年後の資料なので扱いは難しいが、現存する文献証拠で推測される以上に演劇界と深い関わりを持っていた可能性は十分に存在する。しかし、竹内玄玄一『俳家奇人談』([[1816年]])にある近松が西鶴門だという言い伝え<ref>上之巻 井原西鶴「近代戯作者の逸なる近松門左衛門は此門にいづるといひ伝ふ」</ref>は信じがたい。