「ツヴェンティボルト」の版間の差分

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東村愛 (会話 | 投稿記録)
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[[888年]]、父のアルヌルフが[[イタリア]]遠征に随行し、[[フリウーリ]]辺境伯[[ベレンガル]]が[[トレント]]で出迎え、臣従を誓った。出迎えた。ベレンガルは、[[西フランク王国]]遠征に失敗して、イタリアに戻った[[ローマ]]近郊のスポレト公[[グイード]]を撃破したばかりであった。アルヌルフはその功績を認めて、ベレンガルを[[イタリア王]]に任命した。
 
翌[[889年]]にグイードは勢いを盛り返して、ベレンガルを攻撃した。そのため、ベレンガルは[[トレビア]]でグイードに撃破されて、命からがらにフリウーリに帰還した。代わってグイードがイタリア王と称して、[[891年]]に[[西ローマ皇帝]]と称した。これに危惧したアルヌルフは子のツヴェンティボルトに命じて、ベレンガルと連合させてグイードを討伐させた。[[894年]]に、連合軍は[[ベルガモの戦い]]でグイードの軍勢を撃退し、[[ミラノ]]と[[パヴィア]]を奪った。間もなくグイードは病死し、本隊のアルヌルフの軍勢はそのまま南下して、[[896年]]に、アルヌルフは西ローマ皇帝となった。ツヴェンティボルトはこの功績で、父から譲位されてロタリンギア王となった。900年にツヴェンティボルトは病死した。享年29あるいは30歳であった。末弟のルートヴィヒ4世が後を継いだ。
 
==家族==