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釈迦像について出典をもとに加筆、一部記述を非表示化、像内納入品の一覧追加
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===清凉寺===
棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・[[北宋|宋]]に渡り、[[五台山 (中国)|五台山]](一名、清凉山)を巡礼した[[奝然]](ちょうねん、938-1016)という[[東大寺]]出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、[[台州]]の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「'''三国伝来の釈迦像'''」と呼ばれている。奝然は、[[永延]]元年(987年)日本に帰国後、京都の[[愛宕山]]を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する[[比叡山]][[延暦寺]]と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、その願いを達しないまま[[長和]]5年([[1016年]])、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。
 
===大念仏(融通念仏)===
[[融通念仏]]との結びつきができたのは、[[弘安]]2年([[1279年]])以降のことである。この年、大念仏中興上人と呼ばれる[[円覚]]が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。[[大念仏狂言|嵯峨大念仏]]が初めて執行されたのは、下って[[嘉吉]]3年([[1443年]])のこととされる。その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが、[[文明 (日本)|文明]]13年([[1481年]])に再興された。
 
===出開帳中世以降===
[[享禄]]3年([[1530年]])に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、[[慶長]]7年([[1602年]])に[[豊臣秀頼]]によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。[[元禄]]13年([[1700年]])より、本尊の[[江戸]]に始まる各地への出開帳が始まる。また、[[徳川綱吉]]の母である[[桂昌院]]の発願で、伽藍の復興がおこなわれた
 
本寺の釈迦像は、前述のとおり、10世紀に中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった<ref>塚本俊孝「嵯峨釈迦仏の江戸出開帳について」『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)p.14</ref>。こうした信仰を受け、[[元禄]]13年([[1700年]])より、本尊の[[江戸]]に始まる各地への出開帳が始まる。また、[[徳川綱吉]]の母である[[桂昌院]]の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。
このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝、現在は霊宝館に安置)に、その名残りをとどめる。
 
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=== 国宝 ===
;木造釈迦如来立像および像内納入品
:「歴史」の項で述べた、いわゆる「三国伝来の釈迦像」である。像高約160cm160.0cmで、伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という日本にはない中国産のサクラ材で作られているという。縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の通例の仏像と異なる様式を示す。奝然が宋に滞在中の985年、台州開元寺で作らせたもので、背板(内刳の蓋板)裏面の刻銘や像内納入品等文書の記から、張延皎および張延襲という作者仏師の名もわかっている。<!--後述古代インド「紙本著色優填王が釈迦堂縁起」在世中に造らせたという釈迦の中国への伝来基づくついては←「紙本北伝ルートと南伝ルートの2つの説がある。『釈迦堂縁起室町時代、当寺釈迦像は鳩摩羅琰(くまらえん)が中央アジアの[[亀茲]]国に将来するが、その後、[[前秦]]の[[苻堅]]によって奪われ、中国にもたらされたとし、北伝説をとっている時系列清凉寺釈迦像の頭髪、衣文などの様式は[[ガンダーラ]]や中央アジアの仏教美術にその淵源求められる<ref>井上正「奝然と優填王思慕像の東伝」『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)pp.10 -11</ref>
<!-->清凉寺式佛像を特色づける衣文のもっとも古い佛像様式は”三国”の源であるインドの国立Mathura博物館に収蔵されている「Seated BUDDAHA」にみられる。同美術館図録『MATHURA KALA 1999」によれば、3世紀初頭に祖形が見られ、5世紀(ブグタ王朝期)に清凉寺式衣文のような流麗な線と形になっている。またニューデリーの国立博物館には、マトゥラで出土した、完成度が高い「施無畏印のブッダ立像」が、5世紀の名品として陳列されている。古代ギリシアの彫刻様式の影響を受けたガンダーラ佛像を見慣れた目で見ると、異国的にみられるマトゥラ佛像様式は、インドの宗教の中心部ではぐくまれた佛像様式である。「顔容が温和・優雅、まなざしは深く瞑想的」(中村元)であり、薄絹の衣文に包まれた容姿はしなやかさにみちている。-->
 
:この釈迦像の模造は、奈良・[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる。また、この像の胎内からは、造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画など多くの「納入品」が発見され、これらも像とともに国宝に指定されている。納入品のうち「[[五臓六腑]]」(絹製の内臓の模型)は、医学史の資料としても注目される。その他、奝然の遺品としては、生誕書付(臍の緒書き)や手形を捺した文書なども発見された(像内納入品の一覧は後出)
 
'''木造阿弥陀三尊坐像'''
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*木造十大弟子立像
*源空、証空自筆消息(2通)(附 熊谷直実自筆誓願状 1巻、迎接曼荼羅 2幅、迎接曼荼羅由来 1巻)
 
=== 指定文化財の細目 ===
本尊釈迦如来像の正式の国宝指定名称(官報告示時の名称)は次のとおり。
 
木造釈迦如来立像 張延皎并張延襲作 奝然将来 (本堂安置)1躯
:背板裏に「大宋国台州張延皎并弟延襲雕」反花座表に「唐国台州開元寺」「僧保寧」の刻銘がある 蓮弁葺軸底に建保六年大仏師法眼快慶修造の墨書銘がある
像内納入品一切
*一、紙本墨書奝然入宋求法巡礼行並瑞像造立記 僧鑑端書 1通 雍熈二年八月十八日奥書/紙本墨書入瑞像五臓具記捨物注文 奝然自署 1通 雍熈二年八月十八日奥書、造像博士張延皎等列名 1通/附:包紙(奝然封)1紙
*一、紙本墨書細字金光明最勝王経 奝然自署1巻 延暦二十三年三月五日書写奥書 附:竹製八双残闕
*一、紙本墨書細字法華経1巻 附:表紙題簽、銅製軸首一双
*一、版本金剛般若波羅蜜経 雍熈二年六月刊記 1帙 
*一、紙本版画霊山変相図 1枚
*一、紙本版画弥勒菩薩像 高文進画 甲申歳十月十五日刊記 1枚
*一、紙本版画文殊菩薩騎獅像 1枚
*一、紙本版画普賢菩薩騎象像 1枚
*一、紙本墨書義蔵奝然結縁手印状 義蔵奝然自署 天禄三年閏二月三日奥書 1通 
*一、紙本墨書奝然繋念人交名記 粘葉装 1帖
*一、紙本墨書捨銭結縁交名記 雍熈二年八月十八日匠人張延皎等奥書 1通 
*一、紙本墨書捨銭結縁交名記 断簡 1枚 
*一、紙本墨書奝然生誕書付(承平八年正月二十四日云々)1枚
*一、絹製五臓 背皮、雍熈二年八月初五日製五蔵一副云々墨書 1副
*一、線刻水月観音鏡像 絹紐付 紐墨書「台州女弟子朱□娘捨帯子一条」1面 
*一、菩提念珠 1釧分97顆
*一、娑羅樹葉片 1枚
*一、水晶珠 1顆
*一、瑪瑙製耳璫 1箇
*一、方解石 1箇
*一、中国銅銭 開元通宝、乾元重宝、宋元通宝、周元通宝、唐国通宝、天漢元宝、漢元通宝等132枚
*一、銅製鈴子 1箇
*一、銀製釧子 1枚
*一、玻璃器 2口分
*一、雲母製幢 1旒
*一、平絹片等 平絹、秋羅、縐紗、紗、羅、纐纈、綾、錦等一括
 
==行事==
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*27世[[鵜飼光順]]
*28世[[鵜飼光昌]]
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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*『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
*『国史大辞典』、吉川弘文館
*『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)、京都国立博物館、1982
 
== 関連項目 ==