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== 建武政権の瓦解と北朝の成立 ==
鎌倉時代に皇統は後深草系統の[[持明院統]]と亀山系統の[[大覚寺統]]のふたつに分裂する[[両統迭立]]が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。文保2年(1318年)に[[践祚]]して親政を開始した大覚寺統の[[後醍醐天皇]]は倒幕計画を企て、1331年に[[三種の神器]]を持って[[笠置山 (京都府)|笠置山]]へ入り挙兵すると、幕府の奏請により持明院統の[[光厳天皇]]が[[践祚]]される。
 
1333年、反幕勢力の結集により[[鎌倉幕府]]が滅亡すると後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇と正慶年号を廃して[[建武の新政]]を開始する。[[1335年]]([[建武 (日本)|建武]]2年)、7月に関東で[[中先代の乱]]が起こると後醍醐天皇は討伐に向かった[[足利尊氏]]を黙認するが、乱を平定した尊氏は[[鎌倉]]に留まり建武政権から離反する。宮方は[[京都]]に進撃してきた尊氏を撃破する。翌1336年、[[九州]]落ちしていた尊氏は[[持明院統]]の[[光厳天皇|光厳上皇]]から[[院宣]]を受けて再び東上する。宮方では[[新田義貞]]、[[楠木正成]]らを迎撃に派遣するが、5月尊氏は[[湊川の戦い]]において新田ら宮方を撃破して入京する。後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗するが、8月には光明天皇を践祚して北朝が成立し、11月に帰京した後醍醐天皇から[[三種の神器]]を接収した尊氏は京都に[[武家政権]](のちの[[室町幕府]])を成立させる。