「イタリア本土 (古代ローマ)」の版間の差分
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[[File:Part of Tabula Peutingeriana.jpg|thumb|300px|[[:en:Tabula Peutingeriana|タブラ・ペウティンゲリアーナ]](ポイティンガー地図)に記述されたイタリア本土と属州シチリア]]
'''イタリア本土'''(イタリアほんど)は、[[共和
初め[[イタリア半島]]中部の[[都市国家]]から始まったローマは、次第に勢力を増してイタリア全域([[ルビコン川]]から[[カラブリア半島]]まで)を支配下に治めた。ローマは更にイタリア以外の地域も支配下に納めるが、この時点で既にローマは同じ[[ラテン人]]や[[イタリック人]]が住むイタリア半島部の住民を同盟者([[同盟市]])として扱う一方、それ以外の地域は
だが共和制中期まではあくまでローマ共和国は都市規模の国家であり続け、イタリア国家同盟([[ローマ連合]])の盟主という立場に留まった。この「ローマ市>同盟市>属州」という時代は[[同盟市戦争]]によって変化の時代を向かえ、全同盟市はローマに併合されて[[地方自治体]]となり、ローマによるイタリアの国家統一が果たされた。以降、名実ともにイタリア半島はローマの[[本土]]・[[本国]]となり、その後の帝政期では帝国の中枢部として確立された。
==共和制後期==
「イタリア」という
同盟市戦争の後、前述の通り[[共和政ローマ|ローマ共和国]]の地方自治体となったイタリア諸都市であったが、ローマ共和国の行政制度は[[都市国家]]制度のままであった。つまり行政上は無数の村落と都市からなるイタリア全域がローマ市という街の「市内」であるという奇妙な状態が形勢された。こうした制度の一例として、「ローマ市内に軍を展開しない」という法律がそのまま「イタリア全域に軍を展開してはならない」という法律へと拡大された場合が挙げられる。これは[[賽は投げられた|ルビコン川の渡河]]という[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ユリウス・カエサル]]の著名なエピソードの遠因となった。
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[[File:Roman Italy.gif|thumb|300px|帝政時代のイタリア本土における行政区]]
* 第1行政区「ラティウム・エト・カンパニア」
* 第2行政区「アプリア・エト・カラブリア」
* 第3行政区「ルカニア・エト・ブルッティ」
* 第4行政区「サムニウム」
* 第5行政区「ピセヌム」
* 第6行政区「ウンブリア・エト・ア
* 第7行政区「エトルリア」
* 第8行政区「アエミリア」
* 第9行政区「リグリア」
* 第10行政区「
* 第11行政区「トランスパダナ」
帝国の中枢としての地位を確立したイタリア本土領は、それまで狭いローマ市内に限られていたローマ文明の富と栄光を得て大変に繁栄した。豪農達による農業生産はピークに達し、無数の職人衆が装備品・工芸品などの工業製品を広大な帝国全土に供給した。そして何より属州との独占的で支配的な貿易は、多くの大商人達によって巨万の富へと繋げられていった。
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* '''イタリア特別区'''(Italia suburbicaria)
** 「トゥーシア・エト・ウンブリア」
** 「
** 「カンパニア・エト・サムニウム」
** 「アプリア・エト・カラブリア」
** 「シキリア」
** 「サルデ
* '''イタリア供給区'''(Italia annonaria)
** 「
** 「アエミリア・エト・リグリア」
** 「フラミニア・エト・ピケヌム」
** 「ラエティア」
** 「アルペス・コッティアエ」
===帝政後期===
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ランゴバルト王国も後に滅ぼされると、以降は[[教皇領]]や[[神聖ローマ帝国]]・[[ヴァイキング]]・[[アラブ人]]などによる分立の時代を向かえる。イタリア本土が再び一つの領域として大部分がまとめられるのは、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ・ピエモンテ王国]]によるイタリア統一後のこととなる。
==引用==
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==外部リンク==
*[http://www.thelatinlibrary.com/rutilius.html ''De Reditu''], poem by Rutilius Claudius Namatianus, at The Latin Library, describing the decadence of Italia and Rome around 410.
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[[Category:古代ローマ]]
▲[[Category:ローマ帝国]]
[[Category:イタリアの歴史]]
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