「フランティシェク・パラツキー」の版間の差分

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==歴史哲学==
[[カント哲学]]に影響を受け、ヒューマニストとしてパラツキーは人間性を信じ、「民族」とは人類の一体化という目的のための一手段に過ぎない、と説く<ref>{{Cite book|和書|author=T.G.マサリク|year=1994年|title=マサリクの講義録|publisher=恒文社|pages=P.111}}</ref>。パラツキーの祖先は[[アウクスブルク信仰告白]]によってルター派に改宗する以前は[[モラヴィア兄弟団]]に所属していた。パラツキーはその精神的伝統に、カントの「至上命令」に関する教えを結びつけた。つまりチェコの宗教改革の意義は、神学上の変更にはなく道徳上の進歩にある。モラヴィア兄弟団においてカトリックとプロテスタントの教義は相互に浸透し合い、キリスト教はこれまでで最高の水準に達した、モラヴィア兄弟団は歴史的発展の終局点である、と彼は考えた。『ボヘミア史』で、カトリックの出版物では野蛮な狂信者として描かれていた[[フス]]、[[ジシュカ]]、[[オンドレイ・プロコプ|プロコプ]]などのチェコ宗教改革の闘士たちを復権し、チェコ人よりも敵の残虐さが甚だしかったことを示した。パラツキーはオーストリアにより検閲に苦しみながらも最初はドイツ語で書かれていた『ボヘミア史』を1848年以降はチェコ語でも出版できるようにした。この事業は後のチェコの歴史家たちを励まし、[[ヴァーツラフ・トメク]]([[:cs:Václav Vladivoj Tomek|Václav Vladivoj Tomek]])などの弟子たちを育てた。
 
==歴史学の著作==