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| movement = [[無頼派]]([[新戯作派]])
| notable_works = 『[[普賢 (小説)|普賢]]』(1936年)<br />『焼跡のイエス』(1946年)<br />『紫苑物語』(1956年)<br />『[[至福千年]]』(1967年)<br />『[[狂風記]]』(1980年)
| awards = [[芥川龍之介賞]](1936(1937年)<br />[[芸術選奨]](1957年)<br />[[読売文学賞]](1981年)<br />[[朝日賞]](1982年)
| debut_works = 『佳人』(1935年)
| spouse =
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[[1925年]](大正14年)[[11月21日]]、[[文部省]]から派遣された[[博士 (法学)|法学博士]]・[[蜷川新]]の講演会がきっかけで[[学生運動]]が発生。石川は、この事件に関連して左翼学生に加担したとの理由で辞職を勧告され、[[1926年]](大正15年)3月に依願退職した。東京に戻った後は、[[アンドレ・ジッド]]の『[[背徳者]]』([[w:The Immoralist|L'Immoraliste]])などの翻訳をおこなう。
 
小説家としての再出発は、[[1935年]](昭和10年)の『佳人』発表からである。[[19361937年]](昭和1112年)、『[[普賢 (小説)|普賢]]』で第4回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞。その直後、[[1938年]](昭和13年)の『[[文学界]]』1月号に発表した「マルスの歌」が発禁処分を受けたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、森鴎外における史伝の意味を明らかにした『森鴎外』などの評論や、江戸文学の研究に没頭する。
 
終戦後は旺盛な活動を始め、『焼跡のイエス』『処女懐胎』などの作品を発表。[[太宰治]]、[[織田作之助]]らとともに「[[無頼派]]」と呼ばれた。その後、[[安部公房]]に師事されるようになり、安部の作品集『壁』に序文を寄せている。その他にはエッセーも多く残した。[[1967年]](昭和42年)、中国の[[文化大革命]]の際には[[三島由紀夫]]・[[川端康成]]・安部公房とともに共同声明を発表し、中国を批判した。[[大岡信]]・[[丸谷才一]]らとともに歌仙[[連句]]の興行をはじめ、現代文学における共同制作の追求もおこなった。
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== 受賞歴 ==
* [[19361937年]](昭和3112年)、『[[普賢 (小説)|普賢]]』で第4回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]
* [[1981年]](昭和56年)、『江戸文學掌記』で第32回[[読売文学賞]](評論・伝記部門)
* [[1982年]](昭和57年)、『石川淳選集』全17巻にいたる現代文学への貢献で1981年度[[朝日賞]]