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'''前田 光高'''(まえだ みつたか)は、[[加賀藩]]の第3代[[藩主]]

== 家系 ==
父は第2代[[]][[前田利常]]長男母は2代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]の娘・[[珠姫]](天徳院)。正室は[[水戸藩]]主[[徳川頼房]]の娘・[[清泰院 (前田光高正室)|大姫]](3代将軍[[徳川家光]]の養女)。[[徳川家康]]の外孫で、[[前田利家]]の孫である。

子に[[前田綱紀]](長男)、万菊丸(次男)。生年月日は[[寛永]]元年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1624年]][[12月30日]])ともされる。幼名は'''犬千代'''(いぬちよ)。初名は'''利高'''(としたか)
 
== 生涯 ==
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])11月20日、[[加賀藩]]第2代藩主・[[前田利常]]の長男として生まれる。生年月日は[[寛永]]16[[1639年11月20日 (旧暦)|11月20日]])の利常の隠居に伴い家督を継ぐ。[[富山藩1624年]][[大聖寺藩12月30日]]の分封、利常の隠居領のため、加賀藩領の石高は歴代最少の80万石となもされる。
 
[[寛永]]16年([[1639年]])の父・利常の[[隠居]]に伴い、家督を継ぐ。[[富山藩]]、[[大聖寺藩]]の分封と、利常の隠居領のため、加賀藩領の石高は歴代最少の80万石となる。
寛永20年([[1643年]])、嫡男の[[前田綱紀|綱紀]]が誕生するが、この報せを聞いた直後の[[参勤交代|参勤]]では、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ。
 
寛永20年([[1643年]])、嫡男の[[前田綱紀|綱紀]]が誕生するが、この報せを聞いた直後の[[参勤交代|参勤]]では120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ<ref>[[可観小説]]には綱紀誕生に光高は大いに喜び、誕生数日後には利常と共に連歌会を開いて喜びを歌で現している。『前田綱紀』(人物叢書)1頁。</ref>
[[正保]]2年([[1645年]])4月5日、[[老中]][[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]を招いた茶会の席で突然倒れて死去した。[[享年]]30(満29歳没)。
 
[[正保]]2年([[1645年]])4月5日、[[老中]]・[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]を招いた茶会の席で突然倒れて急死した<ref>突然の急死に関してはその才能や人物を恐れた幕府による毒殺や近臣による毒殺などの噂もあったとされる。『前田綱紀』(人物叢書)7頁。</ref>。[[享年]]30(満29歳没)。跡を長男の綱紀が継ぎ、それを利常が補佐する体制がとられた。
 
法名は陽廣院殿將巌天良大居士。墓所は[[石川県]][[金沢市]]野田町の[[野田山|野田山墓地]]。
 
== 人物・逸話 ==
* 母方の叔父に[[徳川家光]]がいるが、家光はなかなか男子に恵まれなかったため、一時この光高を後継者にしようとしたという。
* 両親が美男美女カップルと言われただけあって、光高もかなりの美男子と言われ、家光の[[衆道]]相手をしていた時期もあると、当時から噂されていた。
* 光高は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話がある<ref>『前田綱紀』(人物叢書)12頁。</ref>。
* 光高はなかなかの器量人であり、武芸や和漢の才に優れて『遺訓』『銘歌』『一本種』『自論記』など著作が多数ある。また光高は家康の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった<ref>『前田綱紀』(人物叢書)5頁 - 7頁。</ref>。
* 光高は下戸であったとされ、それを物語る逸話がある。隣藩の[[福井藩]]主・[[松平忠昌]]は酒豪でそれを医師に諌められると、「むこふなる加賀の筑前(光高)、下戸なれど31で病死をぞする」という狂歌を一首歌ったという<ref>『前田綱紀』(人物叢書)7頁。</ref>。ちなみに忠昌は光高の後を追うように4ヵ月後に死亡した。
 
== 官職位階履歴 ==
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* 寛永16年([[1639年]])4月23日 - 家督を継ぐ。
 
== 関連文献脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 山本博文『遊びをする将軍・踊る大名』 教育出版 ISBN 4316358901
* [[若林喜三郎]] 『前田綱紀』 ([[吉川弘文館]]人物叢書、1986年新装版) ISBN 4-642-05058-2
 
{{加賀藩主|3代|1639年 - 1645年}}