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| 公式サイト =
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[
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| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (男優賞)]]'''<br />[[第10回ベルリン国際映画祭|1960年]]『[[風の遺産]]』
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| エミー賞 =
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞 (ドラマ部門)]]'''<br />[[第9回ゴールデングローブ賞|1951年]]『[[セールスマンの死 (1951年の映画)|セールスマンの死]]』
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 = '''[[トニー賞 演劇主演男優賞|演劇主演男優賞]]'''<br />[[1947年]]『[[:en:Years Ago|Years Ago]]』<ref>『[[シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲)|シラノ・ド・ベルジュラック]]』の[[ホセ・フェラー]]とダブル受賞</ref><br />[[1957年]]『[[:en:Long Day's Journey into Night|Long Day's Journey into Night]]』
▲| その他の賞 = [[ヴェネツィア国際映画祭]][[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]<br />[[1952年]]『[[セールスマンの死]]』<br />[[ベルリン国際映画祭]][[銀熊賞 (男優賞)]]<br />[[1960年]]『[[風の遺産]]』
| 備考 =
}}
'''フレドリック・マーチ'''('''Fredric March''', 本名
1931年の『ジキル博士とハイド氏』、また1946年には『我等の生涯の最高の年』で2度の[[アカデミー主演男優賞]]に輝いた。
== 生涯 ==
元来子どもの頃から芝居好きで、14歳でアマチュア劇団に参加する。ラシーン・ハイスクールを経て、[[ウィスコンシン州立大学]]に入学し、経済学を専攻するも、折からの[[第一次世界大戦]]によって砲兵隊に中尉として従軍。帰還後は同校を卒業。この頃から[[ジョン・バリモア]]に憧れて本格的に俳優を目指すようになる。[[1920年]]に[[ナショナル銀行]]の行員となるが、結局は俳優の夢を捨てきれず、盲腸の手術をうけたこともあって、銀行を退職して病院の臨時職員を勤めながら、モデルや舞台の端役出演などで暮らしていた。映画も[[1921年]]の『浮世を茶にして』などにエキストラ出演する。当初はフレドリック・バイケルの芸名だったが、[[1924年]]の初めに'''フレドリック・マーチ'''に改名する。なお芸名は母親の旧姓「Marcher」から。[[1927年]]にはついに主役を演じるようになり、実力派俳優として劇評家の評判もよく、[[シアター・ギルド]]をへてバリモア一家の一人として[[ウェスト・コースト劇団]]で活躍、憧れのジョン・バリモアとも競演を果たす。
[[トーキー映画]]の到来と共に[[1927年]]、[[パラマウント映画|パラマウント]]社に招かれて『ダミイ』で映画入り。舞台で鍛え上げられたその演技力と端正な二枚目で人気を呼び、事実上の'''トーキー・スター第1号'''となる。デビュー当時は、1929年の「底抜け騒ぎ」のようなクララ・ボウの女学生に誘惑される教授役など謹厳実直型の役が多かったが、[[1931年]]の『ジキル博士とハイド氏』での二重人格者の演技が高い評価を得て、アカデミー主演男優賞を獲得。今までと同じ役柄の謹厳実直なジキル博士と特殊メイクにより野獣のようなハイドを演じきったマーチはこの一作で大きく飛躍した。ちなみにこの時はアカデミー男優賞は『チャンプ』に主演した[[ウォーレス・ビアリー]]とダブル受賞で、同時に二人の人物が受賞するということは第41回の主演女優賞([[キャサリン・ヘップバーン]]と[[バーブラ・ストライサンド]])まで唯一の事例だった。また本作は[[1991年]]の『[[羊たちの沈黙]]』の[[アンソニー・ホプキンス]]が受賞するまで、ホラー映画の主役に与えられた唯一のオスカーである。
しかし、常に与えられた役柄に不満を抱き、その事から一時は映画会社を渡り歩く異端児としての日々が続く。[[1934年]]にパラマウントの再契約を拒否、フォックスに移籍し、[[1937年]]のセルズニック・プロの『[[スタア誕生 (1937年の映画)|スタア誕生]]』で落ち目になったかつての人気俳優ノーマン・メイン役を好演、アカデミー主演男優賞にノミネートされる。[[1936年]]には1本12万5000ドルという高額ギャラ・ベスト5に入るなど、この頃に人気はピークになる。[[1938年]]にパラマウントに戻るが、この頃撮影所への不満が爆発。妻で女優の[[フローレンス・エルドリッジ]]と共に[[ブロードウェイ]]の舞台に出るが、一週間で打ち切りという失敗に終わる。さすがにハリウッドに戻るが、一度ハリウッドから出て行った者は余計者扱いされ、独立スタジオぐらいしか呼び声がかからなかった。[[1939年]]にはまたブロードウェイへ走り、舞台に精力的に出演する。この間に映画はギャラを下げて何作かに出演、そして[[1944年]]と[[1945年]]には完全に映画から離れる。まさしく『スタア誕生』のノーマンの如く、この頃にキャリアが低迷し、後続の[[ゲーリー・クーパー]]や[[スペンサー・トレイシー]]に抜かれてしまう。
[[1946年]]に『我等の生涯の最良の年』で中年の復員兵を演じ、2度目のアカデミー主演男優賞を受賞。単なる二枚目から苦悩に満ちた中年男へと見事に変身し、さらなる人気を呼ぶ。翌年は舞台でも[[ルース・ゴードン]]作の『Years Ago』でこの年に創設された[[トニー賞]]の最優秀男優賞を獲得。[[1951年]]には劇作家[[アーサー・ミラー]]の代表作の映画化『[[セールスマンの死 (1951年の映画)|セールスマンの死]]』(アカデミー主演男優賞ノミネート)で[[ヴェネツィア国際映画祭]]の男優賞を受賞、[[1955年]]のサスペンス映画『必死の逃亡者』では[[ハンフリー・ボガート]]扮する脱獄犯相手に迫真の名演技を残し、[[1957年]]には再び[[ユージン・オニール]]作の舞台『夜への長い旅路』でトニー賞に輝いた。[[1960年]]には社会派映画の第一人者である[[スタンリー・クレイマー]]監督の意欲作『風の遺産』にライバルのスペンサー・トレイシーと共演、二人とも同じウィスコンシン州出身、2度のアカデミー賞を獲得、そして『ジキル博士とハイド氏』で主役を演じていたことなど彼らには共通点も多く、実際、二人は私生活でも仲が良かったという。
政治的にはリベラルで、[[1949年]]では[[非米活動委員会]](HUAC)のカリフォルニア支局でブラック・リストに載せられた。1923年にエリザベス・ベイカーと結婚するが、のちに離婚。1927年に結婚したフローレンスとは映画に共演作も多くおしどり俳優夫婦として知られた。
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== 主な出演作品 ==
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* [[生活の設計]]
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* [[我等の生涯の最良の年]]
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* [[必死の逃亡者 (映画)|必死の逃亡者]]
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== 受賞歴 ==
{| class="wikitable" style="font-size: 85%"
=== [[アカデミー賞]] ===▼
|- style="background:#b0c4de; text-align:center;"
! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果
:[[第5回アカデミー賞|1932年]] [[アカデミー主演男優賞]]:『[[ジキル博士とハイド氏 (1931年の映画)|ジキル博士とハイド氏]]』▼
|-
| [[第4回アカデミー賞|1932年]]
| 『[[名門芸術]]』
:[[第10回アカデミー賞|1938年]] アカデミー主演男優賞:『[[スタア誕生 (1937年の映画)|スタア誕生]]』▼
| {{nom}}
:[[第24回アカデミー賞|1952年]] アカデミー主演男優賞:『[[セールスマンの死 (1951年の映画)|セールスマンの死]]』 ▼
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:1952年 男優賞 (国外) 『セールスマンの死』▼
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| [[第10回アカデミー賞|1937年]]
:1960年 男優賞 (国外) 『風の遺産』▼
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=== [[ゴールデングローブ賞]] ===▼
|-
| [[第19回アカデミー賞|1946年]]
:[[1951年]] [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|男優賞 (ドラマ)]]:『[[セールスマンの死 (1951年の映画)|セールスマンの死]]』▼
| 『[[我等の生涯の最良の年]]』
| {{won}}
=== [[ヴェネツィア国際映画祭]] ===▼
|-
: 1932年 男優賞受賞 『ジキル博士とハイド氏』▼
| [[第24回アカデミー賞|1951年]]
: 1952年 男優賞受賞 『セールスマンの死』▼
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|-
=== [[ベルリン国際映画祭]] ===▼
| rowspan="3" | [[英国アカデミー賞]]
| 1952年
| rowspan="3" | 外国男優賞
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| 1954年
| 『重役室』
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| 1960年
| {{nom}}
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| [[第9回ゴールデングローブ賞|1951年]]
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| [[第1回ヴェネツィア国際映画祭|1932年]]
| rowspan="2" | [[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]
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| 1952年
| 『セールスマンの死』
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| 1954年
| 審査員特別賞
| 『重役室』
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|-
| [[第10回ベルリン国際映画祭|1960年]]
| [[銀熊賞 (男優賞)]]
| 『風の遺産』
| {{won}}
|}
== 参照 ==
|