「ミラクルパワーコンビ」の版間の差分

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== 歴史 ==
===結成===
き日手時代のブロディがまだ本名のフランク・グーディッシュを名乗っていた[[1974年]]ごろ初結成。ブロディとハンセンはそれぞれ[[ウェスト・テキサスA&M大学|ウエスト・テキサス州立大学]]の[[アメリカンフットボール|アメフト]]出身の先輩・後輩であり、親友でもある。この時期1974年10月10日には[[NWA (プロレス)|NWA]][[ルイジアナ州]]|トライステート地区]]のUSタッグ王座を獲得<ref>{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/midsouth/nwa/tri-us-t.html|title=NWA United States Tag Team Title History: Tri-State version|accessdate=2012-01-03|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>しているが、これは二人両者にとって初タイトルであった。[[1975年]]に二人はコンビを解消して別々のテリトリーを転戦し、日本でもブロディは[[全日本プロレス]]、ハンセンは[[新日本プロレス]]の看板外国人レスラーであったため再結成は実現しなかった。
 
しかし、両者は[[1976年]]下期に[[WWE|WWWF]]を共にサーキットしており、その際に再びタッグを組んだことがある<ref name="WWE 1976">{{cite web|url=http://www.thehistoryofwwe.com/76.htm|title=WWE Yearly Results 1976|accessdate=2010-06-16|publisher=The History of WWE}}</ref>。当時は同じ[[ヒール (プロレス)|ヒール]]陣営のジ・エクスキューショナーズ(1号=[[キラー・コワルスキー]]、2号=[[ビッグ・ジョン・スタッド]])が[[WWE・世界タッグチーム王座|WWWFタッグ王座]]に就いていたためタイトルに挑戦することはなく、本格的なタッグチームを結成していたわけではなかったが、[[イワン・プトスキー]]&[[ケビン・サリバン]]、[[チーフ・ジェイ・ストロンボー]]&[[アドナン・アル=ケイシー|ビリー・ホワイト・ウルフ]]などのチームと対戦した<ref name="WWE 1976"/>。
 
===日本デビュー===
本格的にこのコンビが売り出されたのは[[1981年]]、[[新日本プロレス]]の[[アントニオ猪木]]、[[新間寿]]による[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]引き抜きの報復として、[[全日本プロレス]]の[[ジャイアント馬場]]がハンセンを引き抜き、年末の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]に参戦させたことに端を発する。この最強タッグにはブロディは[[ジミー・スヌーカ]]とコンビを組んで参戦していたが、ハンセンはこのチームの優勝戦に[[セコンド]]として参加。対戦相手の[[ザ・ファンクス]]の[[テリー・ファンク]]に場外で[[ラリアット|ウエスタン・ラリアット]]を見舞い、ブロディ組の優勝に貢献する。
 
その後、その師匠格でもあるファンクスに対して「テキサスの[[化石]]になれ」と宣戦布告し(外国人トップの[[世代交代]]を迫る意味合いもあった)、二人は本格的にタッグを組むことになる。対戦相手としては以降、馬場&[[ジャンボ鶴田|鶴田]]師弟コンビ、[[鶴龍コンビ]]、ファンクス、マスカラス・ブラザーズ([[ミル・マスカラス]]、[[ドス・カラス]])などが挑んだのチームと対戦したが、彼らの強さは抜きんでていた。全日本の看板タッグ王座である[[インターナショナル・タッグ王座|インタータッグ王座]]には再結成直後の[[1982年]]4月に挑戦し、馬場・鶴田の王者コンビは完全にたたきのめされてかろうじて両者リングアウト防衛、これ以降二度とミラクルパワーコンビがインタータッグ同王座に挑戦することはなかった。
 
===全盛期===
世界最強タッグの戦績は、1982年はファンクスに反則負けで敗れるものの、[[1983年]]に初優勝。[[1984年]]は鶴龍コンビに次ぐ準優勝。しかも彼らの黒星はたいてい反則負けによるものであった。1984年4月には新設された[[PWF世界タッグ王座]]の初代王者決定[[リーグ戦]]で優勝。最終戦で馬場&[[ドリー・ファンク・ジュニア|ドリー]]組を破った時に馬場をツープラトンの[[パイルドライバー]]で[[ノックアウト|KO]]、馬場は翌日の試合を欠場しデビュー以来の無欠場記録が3711でストップしている。
 
コンビ再結成が軌道に乗ってからは[[プエルトリコ]]([[カルロス・コロン]]主宰の[[WWC (プロレス)|WWC]])でも活躍しており小型選手が多い中でパワーで圧倒する試合を魅せていた。
 
===解散===
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== エピソード ==
* [[ジャイアント馬場]]は、「[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]&[[クラッシャー・リソワスキー]]組より超獣コンビの方が上、プロレスが生誕して以来史上最強のタッグチーム」と評している<ref>バップビデオ ジャイアント馬場 ザ・ベスト・オブ・ザ・ベスト VOL.5 ~スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組~</ref>。
* ライバルである[[ジャンボ鶴田]]は、ミラクルパワーコンビと[[ロード・ウォリアーズ]]のどちらが強かったかというファンからの質問に対して、ミラクルパワーコンビの方が強かったと答えている<ref>週刊ゴング  平成15年3月22日増刊号  プロレスBESTタッグチーム「名勝負100」</ref>。
また、当のブロディ、ハンセンはシングルプレイヤーとしても突出している自分たちと、タッグチームとしてのみ存在価値を持っているロード・ウォリアーズでは比較にならないとコメントすることが多かった{{要出典|date=2009年10月}}。また[[天龍源一郎]]も「ミラクルパワーコンビはレスリングも出来たし、30分、1時間といった試合も十分こなせた。だがウォリアーズにはそれは出来なかっただろう」と語っている{{要出典|date=2009年10月}}。
* 日本におけるこのコンビの入場テーマ曲は両者のテーマ曲を合体させたものである。また、二人とも同格であるということを意識して、リング・アナウンサーによる選手紹介の順番は必ず日替わりでどちらかが先に呼ばれることになっていた(通常、タッグでは最後に紹介される選手がチームリーダーであることが慣例)。