「カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ」の版間の差分

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カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、兄弟のなかでは誰よりも、父親バッハへの敬意と、[[バッハ家]]の音楽的・宗教的伝統への忠誠を、強く自覚し続けていたものの、いずれも夭折した二人の息子は、音楽家にならず、祖父と同じ名前を与えられた次男ヨハン・ゼバスティアン2世は、ローマで画家としての修行中に病に倒れて亡くなっている。したがって、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの直接の末裔は実在しない。
 
長い生涯を通じて、カール・フィリップ・エマヌエルはクラヴィーア演奏の巨匠であり続け、チェンバロよりも、むしろ[[クラヴィコード]]と[[フォルテピアノ]]に愛着を示した。おのずとクラヴィーア曲が多くなり、200曲近い独奏曲が遺された。[[鍵盤楽曲]]における代表作として、ベルリン時代には「変奏される反復部つきの mit veränderten Reprisen 」小品([[1760年]]~[[1768年]])がある。いっぽう、ハンブルク時代の精華は、《専門家と愛好家のためのソナタ集・[[幻想曲]]集・[[ロンド]]集》([[1779年]]から[[1787年]]にかけて6巻で分冊出版)である。[[1780年]]に、彼の体系的かつ理論的なクラヴィーア教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論 ''Versuch über die wahre Art das Clavier zu spielen'' 』([[1752年]]ベルリン)を上梓したことによって、彼はヨーロッパの[[音楽理論家]]としても最前線に押し出されることとなった。この著作り、[[1780年]]に演奏法や装飾法などについての有用な実践理論を含んだことから3版を重ね、その後ベートーヴェンのピアノ書法に影響を与えただけでなく、[[ムツィオ・クレメンティ]]や[[ヨハン・バプティスト・クラーマー]]らの指導法の基礎にもなった。
 
ちなみにバッハの息子たちの中で唯ひとり[[左利き]]であり、そのため[[弦楽器]]が不得手だったので、[[鍵盤楽器]]にひときわ愛着を示すことになったと言われている。