「大黒屋光太夫」の版間の差分

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[[File:Daikokoya Kodayu - Landkarte von Japan.jpg|thumb|300px|大黒屋光太夫が書いたとされる日本の地図。裏面には墨書で『天明九酋歳七月末日大日本国伊勢国白字大黒屋幸太夫』とある<ref> [https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/5062/1/kyouyoronshu_269_153.pdf ゲッチンゲン大学蔵大黒屋光太夫筆日本図について] 岩井憲幸 明治大学教養論集通巻269号(1994・12)pp.158</ref>(1789年)。ロシア陸軍の医師をしていた[[ゲオルグ・トーマス・フォン・アッシュ]]{{enlink|Georg Thomas von Asch||de}}が[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]に送ったカードには、ドイツ語で「1793年イルクーツクで受け取る」と記してあった。[[ゲッティンゲン国立大学図書館]]{{enlink|Göttingen State and University Library}}アッシュ・コレクション(Sammlung Asch)所蔵]]
'''大黒屋 光太夫'''(だいこくや こうだゆう、[[宝暦]]元年([[1751年]]) - [[文政]]11年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]([[1828年]][[5月28日]]))は[[江戸時代]]後期の[[伊勢国]]白子(現[[三重県]][[鈴鹿市]])の港を拠点とした[[廻船|回船]](運輸船)の船頭。
 
[[天明]]2年([[1782年]])、嵐のため[[江戸]]へ向かう回船が漂流し、[[アリューシャン列島]]の[[アムチトカ島]]に漂着。[[ロシア帝国]]の帝都[[サンクトペテルブルク]]で女帝[[エカチェリーナ2世]]に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の[[寛政]]4年([[1792年]])に[[根室市|根室]]港入りして帰国した
首都[[ペテルブルク]]で皇帝[[エカチェリーナ2世]]に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の[[寛政]]4年([[1792年]])に[[根室市|根室]]港入りして帰国。
 
[[江戸幕府|幕府]]の[[老中]]・[[松平定信]]は光太夫を利用して[[ロシア]]との交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として[[桂川甫周]]や[[大槻玄沢]]ら[[蘭学者]]と交流し、[[蘭学]]発展に寄与した桂川甫周による聞き取り『[[北槎聞略]]』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。
 
== 生涯 ==
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[[File:Amchitka Island, Beach Fleabane in full bloom - Senecio pseudo-arnica.jpg|thumb|250px|[[アムチトカ島]]の風景。樹木の育たない寒冷地の景色が広がる。]]
[[ファイル:Catherine Palace.jpg|thumb|250px|[[ツァールスコエ・セロー]]の[[エカチェリーナ宮殿]]。光太夫はここで[[エカチェリーナ2世]]に謁見し、帰国の許しを乞うた。]]
 
[[伊勢国]][[亀山藩]]領南若松村([[三重県]][[鈴鹿市]]南若松)の亀屋四郎治家に生まれる。四郎治家は船宿を営み、光太夫(幼名は兵蔵)は次男で兄の次兵衛がいる。母は伊勢[[藤堂藩]]領玉垣村(鈴鹿市玉垣)で酒造業・木綿商などを営む清五郎家の娘妙伯(法名)。
 
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[[1782年]]([[天明]]2年)12月、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で[[紀州藩]]の囲米を積み、伊勢国[[白子港|白子の浦]]から[[江戸]]へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する。7か月あまりの漂流ののち、一行は[[国際日付変更線|日付変更線]]を超えて[[アリューシャン列島]]の1つである[[アムチトカ島]]へ漂着。先住民の[[アレウト人]]や[[毛皮]]収穫のために滞在していた[[ロシア人]]に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らは[[ロシア語]]を習得。4年後([[1787年]])、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。
 
その後[[カムチャツカ]]、[[オホーツク]]、[[ヤクーツク]]を経由して[[1789年]]([[寛政]]元年)[[イルクーツク]]に至る。道中、カムチャツカで[[ジャン・レセップス]]{{enlink|Barthélemy de Lesseps}}(フランス人探検家。スエズ運河を開削した[[フェルディナン・ド・レセップス]]の叔父)に会い、後にレセップスが著した[[レセップスの旅行日記|旅行記]]には光太夫についての記述がある<ref> ''Journal historique du voyage de M. de Lesseps, consul de France, employé dans l'expédition de M. le comte de la Pérouse en qualité d'interprète du roi ; depuis l'instant où il a quitté les frégates Françaises au port Saint-Pierre et Saint-Paul du Kamtschatka jusqu'à son arrivée en France le 17 octobre 1788'' , Paris, Impr. royale 1790 , 2 vol. Royal 1790, 2 vol. in 8. in 8. [http://www.lindahall.org/events_exhib/exhibit/exhibits/voyages/bibliography.shtml フランス語の原題] 1790年英語に翻訳された。英題''Travels in Kamchatka during the years 1787 and 1788'' [http://books.google.com/books?ct=result&q=%22Travels+in+Kamchatka+during+the+years+1787+and+1788%22&btnG=Search+Books 英語版を出典に使用している例が見られる]</ref>。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた[[キリル・ラクスマン]]と出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、[[1791年]](寛政3年)、キリルに随行する形で[[サンクトペテルブルク]]に向かい、キリルらの尽力により、[[ツァールスコエ・セロー]]にて[[エカチェリーナ2世]]に謁見し、帰国を許される。日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節[[アダム・ラクスマン]](キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と3人で[[根室]]へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る二人が江戸へ送られた。
 
光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、[[新蔵]]と庄蔵の2名が[[正教会|正教]]に改宗したため[[イルクーツク]]に残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。
 
帰国後は、11代将軍[[徳川家斉]]の前で聞き取りを受け、その記録は[[桂川甫周]]が『[[漂民御覧之記]]』としてまとめ多くの写本がのこされた。また、桂川甫周は、光太夫の口述と『[[ゼオガラヒ]]』という地理学書をもとにして『[[北槎聞略]]』を編纂した。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は[[蘭学]]発展に寄与することになった。
 
光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も[[樺太]]や[[千島列島]]に対し影響力を強めていくようになった。
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*[[北槎聞略]] - 桂川甫周 1794年 報告用に編纂された将軍[[徳川家斉|家斉]]への献上本 全10巻と絵図・地図
*[[北槎異聞]] - [[篠本久次郎]] 幕府正規の取調べ記録 全4巻
*[[魯西亜国漂舶聞書]](おろしやこくひょうはくききがき)
*[[漂民御覧之記]] - 桂川甫周 光太夫の将軍上覧の様子をまとめた
*[[我衣]](わがころも) - [[加藤曳尾庵]]が、65歳の光太夫を描いている。[[国立国会図書館]]所蔵。
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== 関連項目 ==
*[[日露関係史]]
*[[津太夫]]
*[[紅茶]] - エカチェリーナとの会見の際、紅茶を飲んだのが「日本人初の紅茶」の公式記録。