「鈴木俊一 (東京都知事)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
10行目:
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1910|11|6|2010|5|14}}
|死没地 =
|出身校 = [[東京帝国大学]](現[[東京大学]])
|前職 = [[国家公務員]]([[内務省_(日本)|内務省]]・[[地方自治庁]])<br />[[内閣官房副長官]]<br />[[東京都副知事]]
|現職 =
27行目:
|退任日 = [[1995年]][[4月22日]]
}}
'''鈴木 俊一'''(すずき しゅんいち、[[{{和暦|1910年]](明治43年)}}[[11月6日]] - [[{{和暦|2010年]](平成22年)}}[[5月14日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[内務省_(日本)|内務]][[官僚]]。[[東京都]][[名誉都民]]、[[北京市]]栄誉市民。
 
[[東京都知事]](第9・10・11・12代)、[[東京都副知事]]、[[内閣官房副長官]]([[第2次岸内閣]])等を歴任した。
34行目:
[[山形県]]出身。のちに[[東京府]][[北多摩郡]]中神村(現[[昭島市]])に転居した。[[東京都立立川高等学校|旧制東京府立第二中学校]]、[[第三高等学校_(旧制)|旧制第三高等学校]]、[[東京帝国大学]][[法学部]]卒業。
 
[[{{和暦|1933年]]}}、[[内務省_(日本)|内務省]]に入省。[[第二次世界大戦]]敗戦後の[[{{和暦|1947年]]}}12月31日の内務省分割後は[[地方自治庁]]に配属され、{{和暦|1950}}から{{和暦|1958}}まで地方自治庁(自治庁)の事務次官(1953年({{和暦|1953}}7月までは地方自治庁次長、{{和暦|1954}}以降は自治事務次官)を8年間務める(事務次官在任期間としては戦後最長記録)。[[地方自治法]]を初めとする地方自治関連法([[地方財政法]]、[[自治大学校設置法]]、[[地方公営企業法]]、[[地方税法]]、[[公職選挙法]])や[[東京都]]の制度は実質的に鈴木が官僚として作り上げたものである。
 
[[{{和暦|1958年]]}}、[[第2次岸内閣]]で[[内閣官房副長官]]に就任し、[[岸信介]]首相を支える。翌[[{{和暦|1959年]]}}、[[東龍太郎]][[東京都知事]]の下、[[東京都副知事]]に就任し、[[{{和暦|1967年]]}}まで務める。東は医学者出身で行政にはあまり詳しくなかったため、[[東京オリンピック]]の開催を中心にした開発計画をまとめるなど、高度経済成長期の都政の実務は事実上副知事の鈴木が取り仕切り、「'''東副知事・鈴木知事'''」などと揶揄されることもあった。
 
東は{{和暦|1967}}に3選不出馬を表明し、鈴木は[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]から[[1967年東京都知事選挙|都知事選]]への立候補を打診されるが、結局固辞する。自民党は[[民社党]]が擁立した[[立教大学]]の[[松下正寿]]総長を推薦したが、[[日本社会党]]・[[日本共産党]]推薦の[[美濃部亮吉]]に敗れた<ref>ただし[[{{和暦|2010年]]}}5月21日、[[石原慎太郎]]知事は定例記者会見で1967年の都知事選に言及し、「[[佐藤内閣]]のバカな選択で、鈴木さんが候補者から外された」と述べている。</ref>。東京都副知事退任後、[[日本万国博覧会]]事務総長を務め、そののち[[首都高速道路公団]]理事長に就任した。
 
[[1979年東京都知事選挙]]に自民・[[公明党|公明]]・民社・[[新自由クラブ]]4党推薦で出馬し、3選不出馬により勇退する美濃部知事の事実上の後継者であった社共推薦の[[太田薫]][[総評]]議長、[[無所属]]の[[麻生良方]]らを破り、初当選。革新陣営から都政を奪還する。以後、[[{{和暦|1995年]]}}4月まで、4期16年の長きにわたり[[東京都知事]]を務めた。
 
都知事就任後、鈴木が最初に直面した課題は前任の美濃部が残した膨大な財政赤字の解消だった。鈴木は老人医療費の無料化を廃止するなど、美濃部革新都政の目玉政策だった福祉の大幅な削減や都職員の給与引き下げにより、2期目には都の財政の黒字化を成し遂げる。後に[[長野県知事]]に就任する[[田中康夫]]は、黒字化を達成するためには相応のことが必要であるにもかかわらず、鈴木の行財政改革についてほとんど批判を見聞きしないことから鈴木都政に関心を持ち、[[週刊文春]]での連載「トーキョー大沈入」でも取り上げている(ただし、取材の時期は3期目にあたる)。のちの[[1991年東京都知事選挙]]のさなかに建設が進められていた[[新宿]]の[[東京都庁舎]]が華美すぎるとの批判を鈴木が受けていた時期にも、田中は自著の中で鈴木を擁護している<ref>田中康夫「神なき国のガリバー」 [[扶桑社]]、1991年 ISBN 9784594007911</ref>。
 
しかし3期目以降、都庁舎の丸ノ内から新宿への移転をはじめ、[[東京国際フォーラム]]、[[江戸東京博物館]]、[[東京臨海副都心]]の開発に代表される[[箱物行政]]の推進で多額の起債を発行した結果、都の財政は再び赤字に転じ、美濃部革新都政下の水準にまで悪化した。[[バブル景気]]による地価の高騰やその後の財政悪化を引き起こした点については特に批判が多く、「'''迅速な対応を怠って日本経済を破滅に追い込んだ[[A級戦犯]]筆頭'''」<ref>[[八幡和郎]]『歴代知事三〇〇人 日本全国「現代の殿さま」列伝』[[光文社]]、[[{{和暦|2007年]]}}[[5月]]、130頁</ref>という批判もある。
 
[[1991年東京都知事選挙]]に際しては、自民党は[[小沢一郎]][[自由民主党幹事長|幹事長]]の主導により4選をめざす鈴木を推薦せず、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサーの[[磯村尚徳]]を擁立する。当時、自民党は[[参議院]]で過半数を割り込んでおり、[[ねじれ国会]]の運営を円滑に進めるためには、[[公明党]]の協力が不可欠であった。しかし自党に80歳定年制のルールを敷く公明党が当時80歳の鈴木の推薦に難色を示したため、利害が一致した自民・公明2党は磯村の擁立を強行し、民社党本部も磯村を推薦する。しかし、鈴木都政を支えてきた[[粕谷茂]]ら自民党東京都連の幹部は、党執行部による一方的な決定に猛反発し、鈴木も自民・民社都連の推薦で4選出馬を決断する。また鈴木は[[田英夫]]ら、中道・リベラル派からの支持も受け、首都・東京の知事を選ぶ選挙戦で党本部・都連が別々の候補者を推薦する異例の事態に発展した。都知事選には鈴木、磯村、[[日本共産党]]推薦の[[畑田重夫]]、[[日本社会党]]推薦の[[大原光憲]]のほか、無所属の[[内田裕也]]、[[浜田マキ子]]、[[中松義郎]]ら[[泡沫候補]]が次々に出馬し、総勢16人で争われた。鈴木は高齢批判に対して有権者の前で立位体前屈をして見せて若さをアピールし、磯村は銭湯で高齢者の背中を流す、なりふりかまわぬパフォーマンス合戦が繰り広げられたが、結果、反鈴木票の分散に乗じて鈴木が4選を果たし、磯村擁立を主導した小沢一郎は幹事長を辞任に追い込まれた。選挙後、[[東京都議会]]では[[日本社会党]]が知事与党に加わり、4期目は事実上の[[オール与党]]体制で都政運営を行った。
 
バブル崩壊の影響もあり、鈴木都政4期目で財政はさらに悪化。鈴木が5選不出馬を表明した[[1995年東京都知事選挙]]では、長らく[[内閣官房副長官]]を務めた[[石原信雄]]が鈴木都政の継承を訴え出馬したが、[[経営コンサルタント]]の[[大前研一]]や前[[出雲市]]長の[[岩國哲人]]、社会党を離党した元[[衆議院議員]]の[[上田哲]]、前[[参議院議員]]の[[青島幸男]]ら有力候補が次々に立候補。反権力、リベラルなイメージの強い青島が、元エリート官僚の石原らを破り、圧勝した。鈴木が4期目に開催を計画していた[[世界都市博覧会]]は{{和暦|1995}}の都知事選で争点化し、後任の青島知事により中止が決定された。鈴木は同年起きた[[地下鉄サリン事件]]を引き合いに出し、「都政に[[サリン]]をばら撒かれたようだ」と発言し、各方面から非難を受けた。
 
[[{{和暦|2008年]]}}、第2回[[後藤新平]]賞を受賞。9月11日の授賞式では車いす姿でスピーチし、元気な姿を見せた。
 
[[{{和暦|2010年]]}}5月14日、99歳で死去した。青島幸男の後任の[[石原慎太郎]]都知事が5月21日の記者会見で鈴木の逝去に言及し、鈴木を「'''地方自治の巨星'''」と高く評価した。
 
== 年譜 ==
* [[{{和暦|1933年]]}}:[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]][[政治学]]科卒業。[[内務省 (日本)|内務省]]に入省、地方局に配属。12月、兵役(1934年({{和暦|1934}}12月、地方局に戻る)
* [[{{和暦|1937年]]}}:埼玉社会課長、福島警察課長、長崎水産課長。
* [[{{和暦|1938年]]}}:内務省行政課事務官、選挙法改正を行なう。9月、召集、中国山東省に出征
* [[{{和暦|1941年]]}}:除隊。内務省地方局内務次官、統制経済のもと、全国で米その他の供出増産指導を行なう、また東京府と東京市とを一体化し東京都を制定
* [[{{和暦|1944年]]}}:[[内閣]]参事官、上司に[[岸信介]]と関わりの深いとされる[[迫水久常]]がいた
* [[{{和暦|1945年]]}}:内務省地方局行政課長
* {{和暦|1947}}:[[1947年連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]:GHQによって内務省解体
* [[{{和暦|1948年]]}}:総理庁内事局庶務課長
* [[{{和暦|1949年]]}}:[[地方自治庁]]連絡行政部長
* [[{{和暦|1950年]]}}:地方自治庁次長(在任中に[[自治庁|自治]][[事務次官]](自治庁)改称し、{{和暦|1958}}まで在任)
* [[{{和暦|1958年]]}}:[[第2次岸内閣]]で[[内閣官房]]副長官(長官は[[赤城宗徳]])
* [[{{和暦|1959年]]}}:[[東龍太郎]]都知事の下で[[東京都副知事|副知事]]を務める(〜[[ - {{和暦|1967年]]}})。東知事の下で東京オリンピック開催に尽力
* [[{{和暦|1960年]]}}:企画室設置(企画立案を一本化)。新宿副都心建設公社設立、副知事兼務で理事長に就任。首都圏整備局設置(計画部門を一体化)
* [[{{和暦|1961年]]}}:新都市建設公社設立(多摩ニュータウン開発のための公社)。東京湾改汀港湾計画(2440haの東京湾埋め立て計画を推進)
* [[{{和暦|1964年]]}}:東京オリンピック開催
* [[{{和暦|1967年]]}}:東京都知事選に[[自由民主党 (日本)|自民党]]から一時擁立の話が持ち上がるが固辞(東京問題から離れる)、日本万国博覧会協会事務総長に就任。
* {{和暦|1970}}:[[日本万国博覧会]]。
* [[{{和暦|1971年]]}}:[[首都高速道路公団]]理事長に就任、以後8年間、3、4号線、東名道、中央道などを整備
* [[{{和暦|1978年]]}}:自治次官時代にみずからが設置した機関である[[公営企業金融公庫]]の総裁に就任
* [[{{和暦|1979年]]}}:都知事選に自民党・[[公明党]]・[[民社党]]推薦で立候補、[[日本社会党|社会党]]・[[日本共産党|共産党]]推薦の[[太田薫]]元[[日本労働組合総評議会]]議長と無所属の[[麻生良方]]前[[衆議院議員]]を破り当選
* [[{{和暦|1983年]]}}:自民・公明・民社・[[新自由クラブ]]の4党推薦で出馬、社会・共産2党推薦の[[松岡英夫]]を破り再選。
* [[{{和暦|1987年]]}}:自民・公明・民社の推薦で出馬、社会党推薦の[[和田静夫]]元[[参議院議員]]、共産党推薦の[[畑田重夫]]を破り3選。
* [[{{和暦|1991年]]}}:自民・民社都連の推薦で出馬、元NHKアナウンサーで自民・公明・民社3党推薦の[[磯村尚徳]]、社会党推薦の[[大原光憲]][[中央大学]]教授、共産党推薦の[[畑田重夫]]らを破り4選。
* [[{{和暦|1995年]]}}:東京都知事選に出馬せず、4期16年で退任。
* [[{{和暦|2008年]]}}:第2回[[後藤新平]]賞(後藤新平の会主催)受賞。
* [[{{和暦|2010年]]}}[[5月14日]]:99歳で死去。
 
== その他の役職 ==
102行目:
 
== 関連項目 ==
* [[世界都市博覧会]]
 
== 脚注 ==
135行目:
{{東京都知事|1979年 - 1995年}}
{{全国知事会会長}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:すすき しゆんいち}}
[[Category:日本の総務官僚]]
[[Category:日本の内務官僚]]