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== 歴史 ==
693年、[[ウマイヤ朝]]の[[カリフ]]である[[アブドゥルマリク]]が[[ダマスカス]]でイスラーム帝国初の金貨を打刻させた。これがディナールの起源である。イスラーム世界の硬貨はこの時以来近代になって初めて鋳造硬貨が製造されるまで打刻硬貨だった。当初はディンナールと呼ばれ、主に旧[[ビザンツ帝国]]領で流通した(それまでは、ビザンツ帝国が鋳造した[[ノミスマ金貨]]が流通していた。)8)。8世紀半ばに成立した[[アッバース朝]]の時代になると[[ディルハム]]銀貨による[[銀]]経済であった旧[[サーサーン朝]][[ペルシア]]領でもディナールが流通するようになり、9世紀には金銀二本位制へと移行した。[[金]]の産出地としては、[[サハラ砂漠]]の南の[[ガーナ王国]]や、[[エジプト]]の南の[[ヌビア]](現在の[[スーダン]])などが挙げられる。ガーナ王国の金を、ムスリム商人が岩塩と交換する[[サハラ交易]]が行われていた。またディナールとディルハムの法定換算比率は1ディナール=20ディルハムであったが時代や地域とともに変化していきアッバース朝5代の[[ハールーン=アッラシード]]時代には1ディナール:22ディルハム、時代により1ディナール=30ディルハムの比率も発生した。
 
[[ファイル:Barsbay gold ashrafi 1422 1438.jpg|240px|thumb|アシュラフィー金貨]]
エジプトの[[トゥールーン朝]]でのディナール金貨の純度の高さは有名である。しかし10世紀の中頃から金の供給が減少すると12~13世紀にはシリア以東ではディナール金貨は打刻されなくなり予算や大きな金額はディルハム銀貨で計算されるようになった。ただ西スーダンの金が供給されていた[[ファーティマ朝]]や[[ムラービト朝]]、[[アイユーブ朝]]・[[マムルーク朝]]では依然15世紀初頭まで高品質のディナール金貨を打刻し地中海交易の中心的役割を担ったが次第にイタリア諸都市の金貨(デュカティやフィオリーニなど)に押されディナール金貨は減少した。1425年にはマムルーク朝スルタン・[[アシュラフ・バルスバーイ]]が新ディナール(アシュラフィー)を打刻した。
 
エジプトの[[トゥールーン朝]]でのディナール金貨の純度の高さは有名である。しかし10世紀の中頃から金の供給が減少すると12~13世紀にはシリア以東ではディナール金貨は打刻されなくなり予算や大きな金額はディルハム銀貨で計算されるようになった。ただ西スーダンの金が供給されていた[[ファーティマ朝]]や[[ムラービト朝]]、[[アイユーブ朝]]・[[マムルーク朝]]では依然15世紀初頭まで高品質のディナール金貨を打刻し地中海交易の中心的役割を担ったが次第にイタリア諸都市の金貨(デュカティやフィオリーニなど)に押されディナール金貨は減少した。1425年にはマムルーク朝スルタン・アシュラフ・バルスバーイが新ディナール(アシュラフィー)を打刻した。
 
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