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Chokorin (会話 | 投稿記録)
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箕有と小林にとっては危機というべき事態であったが、小林は阪神に対して「灘循環電気軌道の買収を行うのであれば、十三線敷設のために要した準備費用を補償せよ」「それができないのなら免許線を阪神・箕有の共同経営とするか、箕有による買収を認可せよ」と交渉、阪神では箕有の資本力が小さいことから、この第一次世界大戦勃発直後に起こった[[恐慌]]下では買収は不可能だろうと考え、買収の意思がないことを箕有に伝えた。小林はこの機を逃さず、[[1916年]](大正5年)4月に臨時[[株主総会]]を開催し、灘循環電気軌道の買収、その特許線と十三線との結合を決議する。阪神電気鉄道はこの事態に驚き、総会無効の訴訟提出、用地買収の妨害といった活動に出た。
 
しかし訴訟は[[1918年]](大正7年)12月までに阪神の敗北という形で決着がつき、計画における最大の問題であった建設資金に関しても、[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]を受けて増資・借用という形で確保することができた。その他、資材価格の高騰という問題はあったものの、ようやく計画は前進することになったのである。
 
箕有は[[1917年]](大正6年)[[6月1日]]、十三線の計画を阪神間の競争を行うに当たって優位にすべく、再び南側ルートへの変更申請を行った。これに対しては、伊丹などから「約束反故」だとして抗議の声が上がったものの、結局は「塚口を経由し、そこから伊丹まで支線を敷設すること」を条件にして[[8月29日]]に認可が下った。