「コミュニケーション能力」の版間の差分

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Tantalos (会話 | 投稿記録)
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== コミュニケーション能力をめぐる議論 ==
=== 齋藤孝の指摘 ===
{{要出典範囲|
コミュニケーションを単なる情報や知識のやりとりだと思ったりすると、コミュニケーションには失敗してしまう。仕事の相手ですら、情報と同時に感情のわかちあいは行われており、それを意識している人とそうでない人では、結果に大きな違いがでる。仕事で初顔合わせする相手とまず食事を共にしたりすることが行われているのは、感情を共有するためである。
 
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最近、学校教育で流行っているディベート形式の訓練は危険で、論理至上との思い込みを生み、相手の言いたいことを理解せず、相手の揚げ足取りをしたり、弱点を攻め立てたり、論理をすりかえる習慣がついてしまう。このような小細工が役立つ場面はせいぜい裁判ぐらいしかなく、普通の社会人は仕事をディベート能力で行うものではない。もしもディベート流に、論理をすりかえたり、相手をやりこめたりすれば、トラブルが発生する。
 
|date=2012年1月16日|title=最後の段落にしか出典がないので、全部が齋藤孝さんの主張なのか、あるいはそうでない話(しかも非常に独自研究なり個人的な意見っぽいように見える)も含まれているのか分かりにくい。例えば、三段落目の「最近、学校教育で流行っているディベート形式の訓練は危険で、論理至上との思い込みを生み、相手の言いたいことを理解せず、相手の揚げ足取りをしたり、弱点を攻め立てたり、論理をすりかえる習慣がついてしまう」。段落ごとに典拠を。}}
 
本当に求められている能力は、相手の言いたいことを的確つかみとる能力であり、さらには、相手が言葉が足らずうまく表現しきれていないことまでも洞察し「おっしゃりたいのは...ということですね」と(肯定的に)相手に提案する能力もあると良い。自分の言いたいことがしっかりと受け取られている、と感じることで、人は信頼感を持ち次の段階へと前進してゆくことができるようになる。<ref>齋藤孝『コミュニケーション力』岩波新書 2004年 p.3-12 ISBN 4004309158 </ref>