「横田河原の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
21行目:
 
== 経過 ==
[[治承]]4年([[1180年]])9月頃には源義仲、[[井上氏|井上光盛]]、[[岡田親義]]などの信濃の源氏が[[以仁王]]の令旨を報じて挙兵した。これを受けて市原(現長野市若里市村)の渡し付近で平氏方の[[笠原氏]]と源氏方の[[村山氏]]や[[栗田氏]]との間で前哨戦があったが決着が付かなかった([[市原合戦]])。それに対して、平氏は信濃に隣接する越後の実力者[[城長茂|城助職]]をもって対抗させようとした。
 
翌治承5年([[1181年]])6月、城助職は大軍を率いて信濃国に侵攻し、[[雨宮の渡し]]の対岸に位置していた[[川中島]]平南部の[[横田城 (信濃国)|横田城]]に布陣する。それに対して義仲は上州に隣接する佐久郡の[[依田城]]を拠点に、木曽衆・佐久衆・上州衆(甲斐衆とあるが誤記と思われる)を集結して北上、[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]横田河原において両者が激突する。その際、千曲川対岸から平家の赤旗を用いて城軍に渡河接近し、城本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げるという井上光盛の奇策が功を奏して、兵力では城軍に遥かに劣る信濃勢が勝利を収める。(延慶本『[[平家物語]]』)