「西遊記 鉄扇公主の巻」の版間の差分

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『'''西遊記 鉄扇公主の巻'''』('''さいゆうき てっせんこうしゅのまき'''、原題:鉄扇公主 )は、'''[[中国]]最初にしてアジア初の長編[[アニメーション映画]]'''である。本作は[[日中戦争]]下の困難な状況で、万籟鳴(ウォン・ライミン、[[1900年]][[1月18日]] - [[1997年]][[10月7日]])と万古蟾(ウォン・グチャン、[[1900年]][[1月18日]] - [[1995年]][[11月19日]])の万兄弟により[[上海市|上海]]で制作され、[[1941年]][[1月1日]]に公開された。
 
==あらすじ==
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万一家の双子である万籟鳴と万古蟾、およびその弟である万超塵(ウォン・チャオチェン、1906年 - 1992年)と万滌寰(ウォン・ティーホアン、1907年 -)は、中華民国で最初に専門職として動画に携わったアニメーターであった。万兄弟による最初の本格的なアニメーション映画『[[大鬧画室]]』([[1926年]])が公開されて以降、数十年にわたって万兄弟は中国のアニメーション産業における中心人物であり続けた。1930年代後半の[[日中戦争|日本による上海占領]]期に、万兄弟は中国最初の長編アニメーション映画の制作に着手した。1939年にディズニーの『[[白雪姫 (アニメ映画)|白雪姫]]』を観た万兄弟は、中国の国威発揚のために、『白雪姫』を目標とした同品質のアニメーション映画の作成を試みたのである。
 
3年の歳月と、237名の作画スタッフ、35万元が本作の制作に費やされた。完成したアニメーションには[[ディズニー]]の影響が強く表れてはいたが、そこには中国独自の作風もまた現れていた。万兄弟による後の数十年の作品群では、よりその作風は強められていった。本作では経費節減のために[[ロトスコープ]]が多用されており、しばしばアニメーションキャラクターの顔の上に、実写俳優の目が表れるのが観察できる。
 
1940年までに2万フレームの動画が作画され、20万枚以上の作画用紙が使用された。万兄弟は1万8000フィート以上のフィルムを撮影した。完成したフィルムの長さは7600フィートであり、上映時間は80分であった。万兄弟は吹き替えの為に{{lang|zh|白虹}}、{{lang|zh|嚴月玲}}、{{lang|zh|姜明}}、韓蘭根、{{lang|zh|殷秀岑}}らの俳優と女優を雇った。映画の制作は日本による占領期間に唯一残った映画会社である[[新華影業公司]]で行われた。本作の制作に出資したのは新華影業の社長[[張善琨]]であった。
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==影響==
本作の影響は広範囲に及んだ。早くも[[1942年]]には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の[[手塚治虫]]に影響を与える<ref>手塚が漫画家となって執筆した『西遊記』の翻案作品『[[ぼくのそんごくう]]』は本作から大きな影響を受けており、手塚は[[講談社]]版[[手塚治虫漫画全集]]の同作品に付した「あとがき」の中で、火焔山のエピソードは結局本作に似たものになってしまったと記している。なお、中国語版Wikipediaの本項目では、本作を見たことが手塚がアニメ制作に進んだ契機であると記しているが、日本では手塚が幼少時よりディズニー作品に接していたことや[[1945年]]に見た『[[桃太郎 海の神兵]]』などが要因として指摘されており、正確な記述ではない。</ref>と共に、[[海軍省]]に長編アニメーション映画『[[桃太郎 海の神兵]]』(1945年)を制作させる動機となった。
 
と共に、[[海軍省]]に長編アニメーション映画『[[桃太郎 海の神兵]]』(1945年)を制作させる動機となった。
==脚注==
<references/>
 
==参考文献==
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*[[IMDb]]内[http://www.imdb.com/title/tt0471945/ 鉄扇公主ページ](英語)
*[[インターネット・アーカイブ]]内[http://www.archive.org/details/princess_iron_fan 鉄扇公主ページ](※映画本編が視聴可能)
 
 
==脚注==
<references/>
 
{{DEFAULTSORT:さいゆうきてつせんこうしゆのまき}}