「千徳政氏」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[閉伊郡]][[千徳城]]主、千徳政吉の子として生まれる<ref>『岩手県史』第三巻収録 一戸千徳氏系図</ref>。しかし『黒石星田家文書』の千徳系図では父の名前など内容が食い違っている。千徳氏は津軽郡代であったとされる[[石川政信]]を補佐するため、千徳・浅瀬石両城の城主を兼任していた<ref>『岩手県史』第三巻 438p</ref>。<br />
[[永禄]]4年([[1561年]])、政氏は大浦為信(後の[[津軽為信]])と同盟を結んだとされるが、為信の生年を考えると不自然であり、同盟は実際にはもう少し後の年代にされたと考えられる。天正13年([[1585年]])4月、南部家への反逆に激怒した当主南部信直の命を受け[[名久井兼隆]]を大将とする3000の軍勢が浅瀬石城を攻めて来るも、これを撃退した<ref>『[[津軽一統志]]』</ref>。<br />
なおこの合戦に為信が援軍を出さなかったことが、後々の浅瀬石千徳氏と津軽氏の不和に繋がったとされる。同年、為信と共に分家筋の[[田舎館城]]主、[[千徳政武]]を攻め滅ぼした<ref>同上</ref>。なお、政武を攻めた後、剃髪して法隆と称した。天正16年(1588年)7月20日死去。