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| 死没 = [[天正]]16年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[1588年]][[9月10日]])
| 改名 = 法隆
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
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'''千徳 政氏'''(せんとく
== 生涯 ==
[[閉伊郡]][[千徳城]]主、千徳政吉の子として生まれる<ref>『岩手県史』第三巻収録 一戸千徳氏系図</ref>。しかし『黒石星田家文書』の千徳系図では父や妻の名
[[永禄]]4年([[1561年]])、政氏は大浦為信(後の[[津軽為信]])と同盟を結んだとされるが、為信の生年を考えると不自然であり、同盟は実際にはもう少し後の年代にされたと考えられる。<br />
天正13年([[1585年]])4月、南部家への反逆に激怒した当主南部信直の命を受け[[名久井兼隆]]を大将とする3000の軍勢が浅瀬石城を攻めて来るも、これを撃退した<ref>『[[津軽一統志]]』</ref>。<br />
なおこの合戦に為信が援軍を出さなかったことが、後々の浅瀬石千徳氏と津軽氏の不和に繋がったとされる。同年、為信と共に分家筋の[[田舎館城]]主、[[千徳政武]]を攻め滅ぼした
== 出典 ==
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* [[南部氏]]
▲{{DEFAULTSORT:あせいし まさうし}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:陸奥国の人物]]
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