「ポスト構造主義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''ポスト構造主義'''(ぽすとこうぞうしゅぎ)は1960年後半から1970年後半ごろまでにフランスで誕生した思想運動の総称である。アメリカの学会で付けられた名称であり当のフランスではあまり用いられなかった。「反」構造主義ではなく文字通り「post(~の後に)構造主義」と解釈すべきであるが明確な定義や体系は存在しない。[[構造主義]]、[[アンチヒューマニズム]]、[[ポストモダン]]とそれぞれ関係があり[[啓蒙思想]]を否定する。[[現象学]]者に最も影響を受けており、批評家のコリン・デイヴィスは「ポスト構造主義者でなく厳密にはポスト[[現象学]]者と言うべきである」と主張している。
 
代表的な思想家は[[ジャック・デリダ]]、[[ロラン・バルト]]、[[ジャン=フランソワ・リオタール]]、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[ミシェル・フーコー]]など。ただしこれら思想家の間には思想的な共通性や関連性は必ずしもなく、これらの思想家で自らをポスト構造主義者と規定した者は一人もいない。
6行目:
[[記号学]]で示されるように言語は万能でなく万人に受け入れられている[[シニフィアン]]を再生産するときに限り意思疎通が可能である。すると言語の構造を破綻させることで言語から成り立っている[[イデオロギー]]は意味をなくす。ポスト構造主義は政治的な問題、科学における自然法則、宗教上の神、物語のストーリーなどの、形而上学的な存在を保証しない前提での信念体系について、言語に従属しているというだけで超越的[[シニフィエ]]の資格を失わせることができる。
 
自己の信念や観念を強く主張する場合に、それと反対の概念が絶対に意見に含まれないと言い切ることはできない。言語を用いる限り、正命題は反命題があることだけによってくなるとは言い切れない。たとえば「彼女は仕事において性別で差別された」という主張に対して「主語(彼女)の中に男女という二項対立が含まれていることから貴方の発言は男女差別だ」ということも可能である<ref>ヨーロッパ圏などでは男性名詞・女性名詞があるので会話すら不可能である。また日本語としては「性別」も二項対立にあたると考えられる。しかしそういった日本語固有の問題に対する論文はない。アメリカでは[[ジュディス・バトラー]]などの[[ジェンダー研究]]に発展する。</ref>。
 
形而上学に基づいた批評は、相手の論理の弱点を探し、相手の主張と矛盾する点を突きつけることであったが、ポスト構造主義者は主体を[[脱構築]]することで、深刻な問題に対して問題以外のことが問題を構成しており、その問題には客観性がなく意味決定不能として、解決の提示をする必要もない。シニフィエの定義を論じようと試みても言葉を用いる限り最終的には言葉の定義の議論にしかならない。シニフィアンとシニフィエはバラバラであり純粋な意味や絶対的な主張は存在し得ない。しかしながら我々は日々、膨大な意味を共有し、会話し、物を書いている。ポスト構造主義は、意味や言葉がマスコミや権力者の物ではなく常に一時的なものであり、よりよい物に代替するための進化の一形態であるにすぎず、それは我々個人が作り変えることのできるものある、ということを教えてくれる。