「ポスト構造主義」の版間の差分

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[[記号学]]で示されるように言語は万能でなく万人に受け入れられている[[シニフィアン]]を再生産するときに限り意思疎通が可能である。すると言語の構造を破綻させることで言語から成り立っている[[イデオロギー]]は意味をなくす。ポスト構造主義は政治的な問題、科学における自然法則、宗教上の神、物語のストーリーなどの、形而上学的な存在を保証しない前提での信念体系について、言語に従属しているというだけで超越的[[シニフィエ]]の資格を失わせることができる。
 
自己の信念や観念を強く主張する場合に、それと反対の概念が絶対に意見に含まれないと言い切ることはできない。言語を用いる限り、正命題は反命題があることだけによって成り立たなくなるとは言い切れない。たとえば「彼女は仕事において性別で差別された」という主張に対して「主語(彼女)の中に男女という二項対立が含まれていることから貴方の発言は男女差別だ」ということも可能である<ref>ヨーロッパ圏などでは男性名詞・女性名詞があるので会話すら不可能である。また日本語としては「性別」も二項対立にあたると考えられる。しかしそういった日本語固有の問題に対する論文はない。アメリカでは[[ジュディス・バトラー]]などの[[ジェンダー研究]]に発展する。</ref>。
 
形而上学に基づいた批評は、相手の論理の弱点を探し、相手の主張と矛盾する点を突きつけることであったが、ポスト構造主義者は主体を[[脱構築]]することで、深刻な問題に対して問題以外のことが問題を構成しており、その問題には客観性がなく意味決定不能として、解決の提示をする必要もない。シニフィエの定義を論じようと試みても言葉を用いる限り最終的には言葉の定義の議論にしかならない。シニフィアンとシニフィエはバラバラであり純粋な意味や絶対的な主張は存在し得ない。しかしながら我々は日々、膨大な意味を共有し、会話し、物を書いている。ポスト構造主義は、意味や言葉がマスコミや権力者の物ではなく常に一時的なものであり、よりよい物に代替するための進化の一形態であるにすぎず、それは我々個人が作り変えることのできるものある、ということを教えてくれる。