「少弐資能」の版間の差分

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当時[[武藤氏]]は[[大宰府]]の責任者として[[大宰少弐]]の地位にあったため、資能の代から[[少弐氏|少弐]]姓を名乗るようになったという。
 
資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の[[鎮西奉行]]として働いていた。[[文永]]5年([[1268年]])、[[モンゴル|蒙古]]の使者の対応にも当たっている。[[元寇文永の役]]直前に出家して覚恵と号し家督を長男の経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対[[元 (王朝)|元]]の総司令官として参戦した。しかし奮戦したも、元軍の[[博多]]の街侵攻元軍阻止し撃退することよって焼かれたため、戦後に非難を浴びてい成功する。
 
[[弘安の役]]にも老齢の身を押して出陣した。[[壱岐島]]の戦いでは東路軍相手に奮戦し、壱岐島から東路軍を駆逐した。しかし、このとき敵時の戦闘で蒙古兵の攻撃を受けて重傷となりを受け、その傷がもとでまもなく死去したという。享年84。当時としてはかなりの長寿であった
 
{{少弐氏当主}}