「少弐資能」の版間の差分
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当時[[武藤氏]]は[[大宰府]]の責任者として[[大宰少弐]]の地位にあったため、資能の代から[[少弐氏|少弐]]姓を名乗るようになったという。
資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の[[鎮西奉行]]として働いていた。[[文永]]5年([[1268年]])、[[モンゴル|蒙古]]の使者の対応にも当たっている。[[
[[弘安の役]]にも老齢の身を押して出陣し
{{少弐氏当主}}
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