「モンゴル・南宋戦争」の版間の差分

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[[1268年]]、[[アジュ]]を主将、[[史天沢]]を副将格とするモンゴル軍は南下を開始し、まず樊城を囲んだ。[[襄陽・樊城の戦い|襄陽・樊城攻防戦]]は5年にわたって行われ、[[呂文煥]]以下の南宋軍は非常に良く抗戦したものの、周到に準備・計画を行ったモンゴル軍に敵わず、[[1273年]]に降伏した。
 
大いにモンゴル軍を苦しめた呂文煥であったが、すでになるべく無傷で[[江南]]の地を取ろうと考えていたクビライは大いに優遇し、味方に引き入れようと努めた。十分な援軍を送ろうとしなかったとして賈似道政権に不満を持っていた呂文煥は、クビライに忠誠を誓い、モンゴル軍に加わ寝返った。
 
襄陽・樊城の陥落と呂文煥の投降が南宋の人民に与えた衝撃は大きく、また呂文煥が長年の人脈から長江流域に広く調略を行ったため、南宋は急速に基盤を緩めつつあった。この状況を見て取ったクビライは南宋への大侵攻を決定、[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]を総大将とする空前の大軍が南下を始めた。