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{{Otheruses|ローマ内戦スペインにおける戦闘|太平洋戦争でのソロモン諸島における戦闘|ニュージョージア島の戦い}}
{{Battlebox|
battle_name=ムンダの戦い
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|conflict=[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]
|date=[[紀元前45年]][[3月17日]]
|place= ムンダ(現:[[オスナ]]近郊)
|result=カエサル派の勝利
|combatant1=カエサル派
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|casualties2=戦死30,000
|}}
'''ムンダの戦い'''(ムンダのたたかい、[[イタリア語{{lang-it|伊]]:BattagliaBattaglia di Munda)Munda}})は、[[紀元前45年]][[3月17日]]に[[ヒスパニア]]のムンダ(現:[[オスナ]])で行われた[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]派と[[オプティマテス|元老院派]](ポンペイウス派)との戦いである。
 
== 概要 ==
=== 開戦までの経緯 ===
[[紀元前46年]]春より、[[ローマ属州]][[ヒスパニア・タラコネンシス|ヒスパニア・ウルステリオル]]に於いて[[イレルダの戦い]]でカエサル軍に敗れた元老院派のベテラン兵士を中心として形成された軍勢が、[[グナエウス・ポンペイウス・ミノル|小ポンペイウス]]([[グナエウス・ポンペイウス]]の息子)を担いで蜂起することを宣言し、カエサルが任命したヒスパニアの各属州総督を追放して元老院派がヒスパニアを実効支配した。
 
また、[[タプススの戦い]]でカエサル軍に敗北した元老院派の残党もヒスパニアの元老院派の軍に加わると共に、同じく北アフリカから逃れた小ポンペイウスや[[セクストゥス・ポンペイウス]]、[[プブリウス・アッティウス・ウァルス]]及び[[ガリア戦争]]でカエサルの腹心であった[[ティトゥス・ラビエヌス]]も合流した。元老院派は3つの[[ローマ軍団]](2つは従来からあるベテラン中心の軍、1つはヒスパニアに住むローマ市民から構成された軍)に加えて、ローマ市民権を持たないヒスパニア人や[[ガリア人]]等から構成された軍勢を組織して、属州都であった[[コルドバ]]を始めとしてローマ人居留地も含むヒスパニアの殆どへ勢力を伸ばした<ref>ヒスパニア戦記(Commentarius De Bello Hispaniensi) 3</ref>。
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=== カエサル、ヒスパニア上陸 ===
[[紀元前46年]]11月、カエサルは元老院派を討伐する為にローマを発って、カエサルが信頼を置く[[第10軍団エクェストリス]]や[[第5軍団アラウダエ]]、新しく組織された[[第3軍団ガッリカ]]や[[第6軍団フェッラタ]]等のローマ軍を率いて(軍団兵の中にはヒスパニアで採用した現地人も多かったとされる)、紀元前46年12月にヒスパニアへ到着した。なお、この時にカエサルの甥に当るガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(後の初代ローマ皇帝[[アウグストゥス]])がカエサル軍に帯同する予定であったが、オクタウィアトゥリヌスの体調が優れなかったこともあり叶わなかった。
 
カエサル軍の突然のヒスパニア上陸を利用した形で、カエサルはウリピア(Ulipia)を攻撃していた小ポンペイウスの軍を排除したものの、セクストゥスが守備するコルドバを陥落させることは出来なかった<ref>ヒスパニア戦記(Commentarius De Bello Hispaniensi) 4</ref>。ラビエヌスの助言で小ポンペイウスは野戦を避けると決めた為、カエサルは[[兵糧]]を求めると共に陣営地を築いた。その後、カエサル軍はAteguaを攻囲戦の末に陥落させたが、これによってポンペイウス軍への信用と軍の士気に大きな打撃を与え、ポンペイウス軍に加わった現地兵が陣営を離れたり、元老院派のローマ軍団兵の中にはカエサル軍への帰順を計画する者もいた。この為、ポンペイウス軍は[[持久戦]]を放棄して、カエサルとの会戦を決意せざるを得なかった。
 
=== 両軍戦力 ===
カエサル軍とポンペイウス軍はムンダ(現:オスナ)の平野で向い合い、ポンペイウス軍はムンダ市の防壁から程近い防御の容易ななだらかな丘に陣を敷いた。
 
軍勢はカエサル軍が8軍団、騎兵8,000人、ポンペイウス軍は13軍団、6,000人の軽歩兵、騎兵6,000人であった。 ポンペイウス軍の多くは過去の戦いで一度カエサル軍に降伏していた。そのためカエサルが再び許すことはないと恐れており(実際にカエサルはそのような捕虜を処刑していた)、死力を尽くして戦いに挑んだ。
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カエサルは、なおも抵抗するムンダに対する包囲戦の指揮官としてファビウスを残し、自身はヒスパニア平定に向かった。コルドバは降伏して殆どが武装した元奴隷からなる市内の兵士は全員が処刑され、コルドバは巨額の賠償金を課された。ムンダは暫く持ち堪えたものの、14,000人の奴隷を供出して降伏した。
 
小ポンペイウスは逃亡中にカエサル軍に捕捉されて処刑され、[[プブリウス・アッティウス・ウァルス]](Publius Attius Varus)は戦死した。セクストゥスは[[大西洋]]岸まで落ち延びていったものの、カエサルの権力に抗しうるだけの軍勢はもはや持たなかった。ムンダの戦いでの勝利を以てローマ内戦は事実上終了、カエサルはムンダ戦勝の凱旋式をローマ市で挙行した。この凱旋式でカエサルは[[マルクス・アントニウス]]と同じ車に乗り、その後ろに[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス]]とオクタウィアトゥリヌスが随伴した<ref>プルタルコス「英雄伝」アントニウス11</ref>。
 
終身[[独裁官]]として並ぶ者の無い絶対的な権力を手中に収め、人生の絶頂を迎えたカエサルであったが、ムンダの戦いから約1年後の[[紀元前44年]][[3月15日]]、共和主義者によって[[暗殺]]された。
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{{DEFAULTSORT:むんたのたたかい}}
[[Category:紀元前の戦闘]]
[[Category:共和政ローマの戦闘]]
[[Category:ガイウス・ユリウス・カエサル]]