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{{神社
|名称 = 天久宮
|画像 = [[Fileファイル:Ameku-gū Haiden.JPG|300px250px|拝殿]]<br />拝殿
|所在地 = 沖縄県那覇市泊3-丁目19-3
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|26|13|41.99|N|127|40|57.46|E|scale:25000}}
|祭神 = 伊弉冉尊<br />速玉男尊<br />事解男尊
|社格 = 旧無格社
|創建 = 成化年間              (1465年 - 1487年)
|創建 = 15世紀中期
|本殿 = [[神明造]]
|別名 =
|札所等 = 琉球八社
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|神事 =
}}
[[ファイル:Ameku-gū.JPG|250px|right|thumb|鳥居]]
[[ファイル:Ameku-gū Honden.JPG|250px|right|thumb|本殿]]
 
'''天久宮'''(あめくぐう)は、[[沖縄県]][[那覇市]]にある[[神社]]。[[琉球八社]]の一つで、[[明治]]の[[近代社格制度]]では[[無格社]]。
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== 由緒 ==
『[[琉球国由来記]] 巻11 密門諸寺縁起』<ref>『琉球史料叢書 第1』1962年に所収。</ref>の〔天久山聖現寺〕の段にある「天久山大権現縁起」では、当社の開基を[[成化|成化年間]]([[1465年]] - [[1487年]])であるとし、その創始について次のような伝承を記している。
[[15世紀]]中期、[[成化]]年間([[1465年]] - [[1487年]])に創建した<ref>加治順人『沖縄の神社』p40 ひるぎ社、2000年10月30日
 
</ref>。[[沖縄戦]]で焼失したが、[[戦後]]に再建された。
往古、銘刈村(めかりむら)に翁子と言う者がおり、日々を愉しんで暮らしていた。ある夕方、隣の里の天久野に出て佇んでいると、見れば山上から、気高い女人が威儀の正しい法師を送って下りて来た。山の中腹には、中に泉があって水が流れている小洞があり、二人はそこへ来た。また或る時は、法師が女人を送って山へ上がることがあった。翁子はこれを見て法師に「あなたは何者で、あの女人は誰なのですか」と尋ねた。法師の答えは「私は、ただ此処に住む者で、あの女性は山上の森に住む者です。名乗るほどの者ではありません。」と言うものであった。2人は、ある時は洞の中に入り、ある時は道の半ばで消えるときもあり、これを見るたび不思議に思った。そこで、これを王臣に奏上したところ、国王は諸官人をして虚実を確かめることとした。洞に向かって香をひねって置かせたところ自然に火がついたことから、この話が本当であることが分かり、後日、社殿を造営した。すると「我は[[熊野権現]]なり、衆生の利益のために顕現した。女人は国の守護神[[弁才天]]なり。」との神託があった。
 
この『琉球国由来記』の創建伝承が現在の社伝となっており、『沖縄の神社』においても成化年間の創建説を紹介している<ref>『沖縄の神社』2000年 p40より。</ref>。また、[[慶安]]元年([[1648年]])に初版が開板された『[[琉球神道記]] 巻第5』<ref>『琉球神道記』1943年。</ref>の「天久権現事」にも、上記伝承とほぼ同様の内容が記載されている<ref>『[[琉球神道記]] 巻第5』の「天久権現事」では目軽村(めかるむら)の翁子となっている。また『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』の〔天久山聖現寺〕の段には「神道記に見ゆ」と記されており、『琉球国由来記』が『琉球神道記』を参照していることを窺わせている。</ref>。
 
当社は[[真言宗]]8公寺の一つである聖現寺(現在も当社に隣接)に併置の神社として、官社の制により琉球八社とされた。官社へは王府から神職の役俸並びに営繕費が支給されたが、当社へは神職として祝部・内侍・宮童が置かれた。また、祝部・内侍が[[神楽]]の際に着用する服装は全て王府の寺社座から支給を受けた<ref name="shukyoushi5-2-3">『琉球宗教史の研究 第5編 明治の宗教政策 第2章 社寺禄の処分 第3節 社禄の処分(神社)』より。『琉球宗教史の研究』1965年。</ref>。
 
[[明治時代]]に入り、 [[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]により琉球王国が廃され[[沖縄県]]が置かれると、当社は近代社格制度により無格社とされた。『琉球宗教史の研究』によれば、沖縄県行政府では当社を村社に列することを立案したが、経済的な理由から村社列格が出来ず、また社殿その他の設備においても不備な点が多々あって村社列格が事実上不可能であることから、とりあえず無格社として残置し、追々維持拡張整備して村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている<ref name="shukyoushi5-4-2">『琉球宗教史の研究 第5編 明治の宗教政策 第4章 社寺組織の改革 第2節 神社組織の改革』より。『琉球宗教史の研究』1965年。</ref>。
 
さらに『琉球宗教史の研究』によれば、当時地元の民衆と信仰的に直接結合していたのは[[御嶽]]拝所であり、無格社となり日本政府の経済的保障がなかった当社は、その後経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなり、腐朽にまかせて拝殿は失せ、本殿は[[昭和]]12年([[1937年]])大音響と共に逆転倒壊して逆立状態となったとしている<ref name="shukyoushi5-5-1">『琉球宗教史の研究 第5編 明治の宗教政策 第5章 神社の列格並に創立 第1節 琉球八社』より。『琉球宗教史の研究』1965年。</ref>。しかし社頭の案内板『天久宮由緒』<ref name="shato">[[:ファイル:Ameku-gū.JPG|右の鳥居画像]]で鳥居の左に写る案内板</ref>によれば、社殿は[[沖縄戦]]の最中である昭和19年([[1944年]])に空襲で焼失したと述べている。
 
『天久宮由緒』<ref name="shato"/>によれば、社殿を失って後、[[戦後]]しばらくは御嶽の形式で奉祀していたが、昭和47年([[1972年]])に現在の社殿を建立、同年に奉鎮祭を斎行している。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[袋中|袋中良定]] 著 明治聖徳記念学会 編|title=琉球神道記|series= |publisher=明世堂書店|year=1943}}
* {{Cite book|和書|author=[[伊波普猷]]・[[東恩納寛惇]]・[[横山重]] 編|title=琉球史料叢書 第1|series=琉球史料叢書|publisher=井上書房|year=1962}} ‐ 『琉球国由来記』巻1から巻11を所収。
* {{Cite book|和書|author=鳥越憲三郎|title=琉球宗教史の研究|series= |publisher=[[角川書店]]|year=1965<!--年3月-->}}
* {{Cite book|和書|author=加治順人|year=2000<!--年10月30日-->|title=沖縄の神社|series= |publisher=ひるぎ社|isbn= }}
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ameku-gū}}
*[[琉球神道]]
 
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[[Category:熊野神社]]
[[Category:沖縄県の旧無格社]]
{{shinto-stub神道 横}}