「パンチョ・ビリャ」の版間の差分
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彼は[[ドゥランゴ州|デュランゴ州]]サンファン・デル・リオのラ・コヨータダで、大農園で働くインディオ系の[[小作農]]の息子として生まれた。父親は彼が幼少時に死に、母と二人の妹、二人の弟と暮らしていたが、16歳の時に農園主と衝突し[[チワワ州]]で山賊に加わった。警官隊との銃撃戦で山賊の首領が死ぬと、彼はその名「フランシスコ・ビリャ」を名乗るようになり、山賊を率いることとなった。彼は追い剥ぎから家畜泥棒まで及ぶ犯罪のために数回捕らえられたが、コネを通じて安全に釈放された。
その後ビリャは盗んだ家畜を売り払っていた経験を生かし、食肉・屠殺業を営んでいたが、チワワ州の財務行政官
=== 革命 ===
[[1911年]]3月にビリャはマデロを支持してディアスの連邦軍との戦いに加わった。5月末にはディアスが大統領を辞任、国外逃亡し11月にはマデロが選挙の末大統領に就任する。翌年の3月に解放軍のメンバーだった
[[1913年]]2月にウエルタは[[クーデター]]を起こし、マデロを殺害、大統領に就任した。当時チワワ州の知事だったゴンサレスはウエルタによって逮捕、殺害された。ビリャは自分の理解者がウエルタによって殺害されたことで彼に対する復讐心を燃やした。
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ウエルタのクーデターに反対する動きが、[[コアウィラ州]]知事[[ベヌスティアーノ・カランサ]]を筆頭に起こった。ビリャは彼の元に集まった兵達と共に革命軍に加わり、カランサを第一統領とする「護憲軍」が結成された。ビリャは8月にはアセンシオンを出て南に向かい、ナサス湖畔での会議で「護憲軍北部師団」の司令官となる。このころ、[[ジョン・リード]]が北部師団と行動を共にしている。同年10月に、ビリャは奇策によって米国との国境の要衝[[シウダー・フアレス]](フアレス市)を占領、11月には反撃するウエルタ政府軍をフアレス市近郊のティエラ・ブランカで破り、ひきつづき州都チワワ市を占領してチワワ州全域を解放した。翌年4月には鉄道の要衝トレオンを攻略。ウエルタは7月に退陣し、[[スペイン]]に亡命した。同月にカランサが暫定大統領に就任するが、既成の体制を維持しようと旧支配層との妥協を図ったカランサに対し革命勢力は反発、ビリャは「メキシコ国民に対する宣言」を発表する。
10月に革命軍の代表者によるアグアスカリエンテス会議が開催され、
一方のカランサは[[ソノラ州]]軍の司令官[[アルバロ・オブレゴン]]と手を結び[[ベラクルス]]から反撃、国軍のほとんどがカランサ側に付き、サパタ派は敗走しメキシコシティがオブレゴン軍の手に落ちる。オブレゴン軍は[[1915年]]の4月に[[グアナファト州]]セラヤでビリャ軍と激突、塹壕と機関銃を組み合わせた新戦法を取るオブレゴン軍に対し、騎兵の突撃を繰り返したビリャ軍は大敗し、チワワ州に敗走しゲリラ戦を行うようになる。7月に全土をほぼ平定したカランサは大統領に就任する。アメリカ合衆国も[[10月19日]]にカランサを承認する。
=== アメリカ軍のビリャ討伐遠征 ===
ビリャはカランサを承認したアメリカに抗議、[[1916年]][[1月11日]]にチワワ州内で列車に乗っていたアメリカ人鉱山技師ら16人を殺害、[[3月9日]]には1,500人を率いて国境を越え[[ニューメキシコ州]]
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は3月15日、懲罰のための遠征部隊12,000人を[[ジョン・パーシング]]将軍の指揮下メキシコに派遣した。このときのパーシングの副官が[[ジョージ・パットン]]中尉である。この遠征はアメリカでは
[[1920年]]の和平協定でビリャ軍は武装解除され、ビリャは故郷のチワワ州で広大な土地を得て3人の妻と6人の子供、革命活動の同志やその家族たちと農場を経営し農園主として平和に暮らしたが、[[1923年]][[7月20日]]に友人の子供の名付け親になるためパーレル市に出かけた帰り道で銃撃を受け暗殺された。暗殺犯は不明のままで終わったが、軍部が関係していたとされる。ビリャはメキシコの大衆から英雄として扱われたが、[[メキシコ革命]]正史上では無視され続けた。彼が議会で正式に革命の功労者とされたのは死後43年経った[[1967年]]のことであった。
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