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Bugei (会話 | 投稿記録)
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古くは、[[12世紀]]以降の[[武家政権|武家社会]]の中で[[武芸十八般]]と言われた[[武士]]の[[日本の合戦一覧|合戦]]時の技芸である[[武芸 (日本)|武芸]]が成立し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]が終わって[[江戸時代]]にその中から[[日本武術|武術]]の一つとして[[柔術]]が発展した。柔術は[[幕末]]までに百を越える[[流派]]が生まれていたとされる。
 
[[明治維新]]以降、柔術の練習者が減少していた中、[[開成学校|官立東京開成学校]](のちの[[東京大学]])を出て[[学習院]][[講師 (教育)|講師]]になったばかりだった[[嘉納治五郎]]が、[[投げ技]]、[[当身技]](真之当身)を中心として[[関節技]][[絞め技]]といった捕手術の体系中心編む一方で乱捕技するしての[[投げ技]]も持つ[[天神真楊流]]柔術や、投げ技を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた[[起倒流]]柔術の技を基礎に、起倒流の稽古体験から「[[崩し]]」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして'''柔道'''と名付け、明治15年([[1882年]])、[[東京府]][[下谷]]にある[[永昌寺 (台東区)|永昌寺]]という寺の書院12畳を道場代わりとして「[[講道館]]」を創設した。
 
もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、[[滝野遊軒]]の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例<ref>菊池智之「松平定信の武芸思想に関する一考察-新甲乙流への道程-」『武道学研究』第23巻第3号、1991年3月、pp.10-23</ref>などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。