「リチャード・P・ファインマン」の版間の差分

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*1939年~[[1943年]] - [[プリンストン大学]]の大学院生となり、[[ジョン・ホイーラー]]教授の助手を務める。
**[[1941年]] - 最初の妻アーリーン・グリーンバウムと結婚する。
**ホイーラーの勧めにより、電気力学の量子論についてのゼミをすることになったが、ゼミの前評判を聞きつけて[[ユージン・ウィグナー]]、[[ヘンリー・ノリス・ラッセル]]、[[フォン・ノイマン]]、[[パウリ]]、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]などのそうそうたるメンバーが出席した。
**[[原子爆弾]]開発プロジェクト[[マンハッタン計画]]への参加を持ちかけられ、当初は断ったが、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が原子爆弾を先に開発する恐れがあると思い直し、結局この計画にたずさわることになった。このため自分の研究をしばらく諦めて、しばらくはプリンストン大学内でこの計画に協力した。最終的には[[ロスアラモス]]に行くことになったが、行く直前に6週間休暇をとって電磁波の前進波についての博士論文を書き終え、博士号を取得。
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*1951年~ - [[カリフォルニア工科大学]]の教授
**1951年末 - 2週間ほど日本訪問。
**1952年6月 - 2番目の妻となるメアリー・ルイーズ・ベルと結婚、4年で破局。離婚理由は「肉体的精神的苦痛(ボンゴの騒音と四六時中微積分に没頭していた)によるもの」としてファインマンもこれを事実として認める。
**[[1953年]] - 2番目の妻メアリー・ルーと結婚。その直後、[[国際理論物理学会]] 東京&京都で来日。
**[[1965年]] - [[量子電磁力学]]の発展に大きく寄与したことにより、[[ジュリアン・S・シュウィンガー]]、[[朝永振一郎]]とともに[[ノーベル物理学賞]]を共同受賞した。
**[[1978年]] - 腹部の[[癌]]<ref>ロス・アラモスの原爆開発の研究に携わった人は、腎臓周辺組織の癌が多いといわれている。 R・P・ファインマン著「困りますファインマンさん」訳者あとがきより</ref>の1回目の手術を受ける。