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{{基礎情報 軍人
'''ユハン・ハッグルンド'''(Hagglund;[[1893年]] - [[1963年]])は、[[フィンランド]]の軍人。中将。
| 氏名 = ユハン・ヴォルデマル・ハッグルンド
| 各国語表記 = Johan Woldemar Hägglund
| 生年月日 = [[1893年]][[8月10日]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1893|8|10|1963|2|12}}
| 画像 = Johan Woldemar Hagglund.png
| 画像サイズ = 300px
| 画像説明 =
| 渾名 =
| 生誕地 = [[ヴィープリ]](現ロシア領:ヴィボルグ)
| 死没地 =
| 所属組織 = {{flagicon|FIN}}[[フィンランド国防軍]]
| 軍歴 =
| 最終階級 =
}}
 
'''ユハン・ハッグルンド'''(Johan Woldemar Hägglund;1893年8月10日~1963年2月12日)は、[[フィンランド]]の軍人。中将。'''ヘグルンド'''や'''ヘッグルンド'''、'''ハグルンド'''と表記されることもある。
 
== 経歴 ==
 
ボルグ出身。1915年3月、[[ドイツ]]に渡り、将校としてプロシア猟兵大隊に入隊。1917年~1918年のフィンランド内戦において[[白衛軍]]に参加し、[[赤軍]]と闘に参加した
 
両大戦間期に、軍管区司令官、第2師団長等を歴任。[[1939年~1941]]~[[1941]]、第4軍団(第12、第13師団)長。[[冬戦争]]初期、[[ソビエト連邦|ソ連]]第8軍と戦い、[[フィンランド国防]]最良の指揮官の1人と評された。1939年12月1日、ソ連軍は第4軍団の陣地に対して攻勢を開始したが、ハッグルンドは敵に大損害を与えて、これを撃退した。1940年1月6日、攻勢転移し、ソ連第168、第18狙撃師団を包囲した(第18師団は全滅)。
 
[[独ソ戦]]([[継続戦争]])開始後、A.[[エリック・ハインリッヒス]]将軍の[[カレリア]]軍の編成下の第7軍団(第19、第7師団)長に任命。1941年9月4日、[[ペトロザヴォーツク]]に対して攻勢を開始し、10月1日、同市を奪取(1942年1月、ペトロザヴォーツクはヤーニスリンナに改称され、東カレリア軍事行政本部が設置された)、メドヴェージエゴルスクに対して攻勢を継続した。1943年~1944年、軍総監。1944年、防御施設計画本部長となり、国土防衛戦の準備を委任された。同年秋、対独参戦に備えて、[[ヘルシンキ]]の防衛業務を指導した。
 
== パーソナル ==
 
息子のグスタフは、フィンランド軍の軍人、将官で、2001年から欧州連合軍事委員会議長。
 
== 関連項目 ==
*[[コッラの戦い]]
*[[アールネ・エドヴァルド・ユーティライネン]]
 
[[Category:フィンランドの軍人|はつくるんと ゆはん]]
[[Category:1893年生|はつくるんと ゆはん]]
[[Category:1963年没|はつくるんと ゆはん]]
 
[[en:Woldemar Hägglund]]
[[fr:Woldemar Hagglund]]
[[no:Woldemar Hägglund]]
[[sl:J. Woldemar Hägglund]]
[[fi:Woldemar Hägglund]]
[[sv:Woldemar Hägglund]]