「コンスタンティノス7世」の版間の差分

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| 全名 = コンスタンティノス
| 出生日 = [[905年]][[9月2日]](?)
| 生地 = [[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノープル大宮殿|コンスタンティノポリス大宮殿]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|905|9|2|959|11|9}}
| 没地 = [[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]
| 埋葬日 =  
| 埋葬地 =
| 継承者 =
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== 生涯 ==
マケドニア朝2代目の皇帝[[レオーン6世]]と、その4番目の妻ゾエ・カルボノプシナ(カルボノプシナは「黒い瞳」の意味)の間に生まれた。コンスタンティノスが幼いうちに父が死去し、叔父である[[アレクサンドロス (東ローマ皇帝)|アレクサンドロス]]が帝位に就いた。
 
しかし、アレクサンドロスは在位1年で死し、[[913年]]6月にコンスタンティノスは皇帝に即位した。幼いコンスタンティノスに代わって[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]][[ニコラオス1世ミュスティコス]]を長とする[[摂政]]団が国政を担ったが、ゾエ・カルボノプシナは反ニコラオス派であった(レオーンの4度目の結婚にニコラオスは反対した)上、ニコラオスが協力を期待した帝国軍最高司令官のコンスタンティノス・ドゥーカスが帝位を狙って殺されるなど国内は混乱した。
 
そこへ先帝アレクサンドロスの貢納金支払停止を理由に[[シメオン1世]]率いる[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア]]軍が侵攻、8月には首都コンスタンティノポリスにまで攻め寄せてきた。東ローマ側は大規模な譲歩を迫られ,シメオンを「ブルガリア皇帝」として戴冠させ、コンスタンティノス7世とシメオンの娘との婚約させることで和議を結んだ。皇帝の義父となるシメオンに帝国を乗っ取られてしまうこと危惧した勢力は摂政団を倒し、ゾエ・カルボノプシナが権力を握った。ゾエはシメオンの戴冠を取り消し、帝国の東西で戦いを進めたが[[917年]] - [[918年]]にブルガリアに敗北し、その権威は失墜した。翌[[919年]]3月には帝国海軍の司令長官[[ロマノス1世レカペノス|ロマノス・レカペノス]]が宮殿を占領し、ゾエは修道院へ隠棲させられた。ロマノスは娘ヘレネとコンスタンティノスを結婚させて皇帝の義父共同皇帝となって実権を握った。
 
[[920年]]になるとコンスタンティノスは正帝の座を追われ、ロマノスが正帝([[ロマノス1世レカペノス]])となった。さらにロマノスの息子長男クリストフォロスが序列第2位の皇帝(共同皇帝)となり、コンスタンティノスは正統皇室の嫡男にも関わらず序列第3位の共同皇帝にまで落とされてしまった。以後24年間ロマノスが帝国を統治し、父レオーン6世以上に学究的な性格だったコンスタンティノスはもっぱら読書や学術研究に没頭することになった。
 
[[944年]]、ロマノス1世はコンスタンティノス7世を後継者に指名した。既にロマノスの長子クリストフォロスは病死しており、残る二人の息子をロマノスは評価していなかったのである。これにロマノスの次男・三男が反発して、[[クーデター]]でロマノス1世を追放した。二人は次にコンスタンティノスの追放を図ったが、ここで民衆の支持を受けていたコンスタンティノスは二人を逮捕させて追放。レカペノス家の勢力を一掃したコンスタンティノスは40代になってようやく実権を掌握することに成功した。
 
帝の座を回復した後もコンスタンティノスは実際の政治は臣下に任せ、自らは引き続き学問研究に没頭した。彼の治世の下で学者が宮廷に集められて[[古代ギリシャ文化]]文化の研究が進み、百科事典的な書物『抜粋』や農業書などが編纂された。コンスタンティノスは建築・音楽といった面に興味を持ち、教育にも力を入れた。また、コンスタンティノス自身自ら『[[バシレイオス1世]]伝』『[[テマ]]について』、および息子[[ロマノス2世]]のために書いた『[[帝国統治論]]』『[[儀式の書]]』などの著作を残した。こうして、帝国は後世「[[マケドニア朝ルネサンス]]」と呼ばれる[[ビザンティン文化]]の黄金時代を迎えた。
 
また、コンスタンティノスは[[後ウマイヤ朝]]、[[神聖ローマ帝国]]、[[キエフ大公国]]などと外交団を交換して友好の維持に努める一方、北シリア・メソポタミアでは[[ニケフォロス2世フォカス|ニケフォロス・フォカス]](後の皇帝[[ニケフォロス2世フォカス]])や[[ヨハネス1世ツィミスケス|(後の皇帝[[ヨハネス1世ツィミスケス]](後の皇帝ヨハネス1世)などの活躍で東方で優位に立つことに成功した。
 
コンスタンティノス7世は、[[959年]][[11月9日]]に病死した。多くの首都市民がその死を悼んだといわれている。
 
==「ポルフュロゲネトス」について==
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==脚注==
{{reflist}}
<references />
 
{{commonsNcommons|Category:Konstantinos VII Porphyrogennetos}}
{{東ローマ皇帝||920年 - 944年はロマノス1世と共治}}
 
{{先代次代|[[東ローマ帝国の皇帝一覧#マケドニア朝|東ローマ皇帝]]|913年 - 959年<br>(920年 - 944年は<br>[[ロマノス1世レカペノス|ロマノス1世]]と共治)|[[アレクサンドロス (東ローマ皇帝)|アレクサンドロス]]|[[ロマノス2世]]}}
 
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