「崇峻天皇」の版間の差分

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== 系譜 ==
[[画像:Emperor family tree26-37.png|thumb|right|300px|天皇系図 26~37代]]
[[欽明天皇]]の第12皇子。母は[[蘇我稲目]]の女・[[蘇我小姉君(おあねのきみ)|小姉君]]で、[[敏達天皇]]、[[用明天皇]]、[[推古天皇]]の異母弟にあたる。
*妃:[[小手子]](こてこ、[[大伴糠手子]]の女)
**[[蜂子皇子]](はちこのみこ、波知乃子王) [[羽黒山]]の伝承では[[出羽三山]]開祖・能除大師と同一とされる。
**錦代皇女(にしきてのひめみこ)
*嬪:[[河上娘]](かわかみのいらつめ、[[蘇我馬子]]宿禰の女)
*夫人:[[布都姫]](ふつひめ、[[物部守屋]]の妹。[[先代旧事本紀]]に拠る)
*母不明
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== 即位 ==
[[大臣 (日本)|大臣]](おおおみ)の[[蘇我馬子]]によって推薦され即位した。一方[[ (古代日本)|大連]](おおむらじ)の[[物部氏|物部守屋]]は、[[穴穂部皇子]](あなほべのみこ)を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降[[物部氏]]は没落してしまう。
 
== 仏教興隆 ==
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== 暗殺 ==
592年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の[[租庸調(ちょう)#調|調]]を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で[[東漢駒|東漢直駒]](やまとのあやのあたいこま)に暗殺をさせた。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である<ref>他には、配流先からの逃亡に失敗した直後に急逝した[[淳仁天皇]]や毒殺の疑いのある[[孝明天皇]]の例が未確定である。また、[[安康天皇]]は同じ[[皇族]]によって殺害されているが、史実性が低いので除外されることが多い。</ref>。死亡した当日に葬ったことと、[[陵地]]・[[陵戸]]がないことは、他に例が無い。近年、佐藤長門は「[[王殺し]]」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の王族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している<ref>佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6)</ref>。
 
== 陵墓 ==
『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調(ちょう)を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」と出ている。
 
『延喜式』諸稜式に「無陵地幷無戸」とある。陵墓要覧では所在地を奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする<ref>坂本太郎他校注『日本書紀(四)』岩波書店 2002年 384頁下段</ref>。