「長沼弘毅」の版間の差分

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東京府立一中(のち[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]])では、同期に[[刑部人]]ら。一中では目黒真澄の英語の授業や、柔道など体育の授業に親しみ、[[静岡高等学校 (旧制)|旧制静岡高校]]時代に[[シャーロック・ホームズ]]などの[[探偵小説]]に出合う。また静高時代に生涯の盟友となる[[塚本憲甫]]と知り合う。この頃、柔道五段の腕前となる。[[1929年]]に[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]][[卒業]]、[[大蔵省]]入省。入省同期に[[福田赳夫]]、[[前尾繁三郎]]、[[吉村成一]]など。
 
「一高・東大にあらずんば人でなし」という当時根強かった省内空気にあり傍流派にあったが<!-- 東大なのになぜ? 文意がとれない → 同じ東大卒でも、一高出身ではないから。あくまで相対的な省内の黙約的慣例だったのでしょう。また、このことは長沼の伝記にも触れられています。-->、勧銀出身の[[馬場えい一|馬場鍈一]]蔵相時代に入ると時の軍部の動きと連動した革新運動のさなか大幅な人事刷新が行われ、[[山田龍雄]]が主税局長(のち逓信次官)に、[[松隈秀雄]](のち大蔵次官)は主税局国税課長に、長沼は銀行局事務官から蔵相秘書官にそれぞれ抜擢された。同時に、省内主流派の[[津島壽一]]次官が退任、[[賀屋興宣]]主計局長が理財局長に、[[石渡荘太郎]]主税局長が内閣調査局調査官、[[青木一男]]理財局長が[[対満事務局]]次長へ異動となったが、主に長沼がこれらの刷新策を練り上げたものだといわれた<ref>『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行、1978年5月30日) P22 ~ </ref>。
 
その後、馬場の内務大臣就任と共に内相秘書官となったが、馬場も急逝。大蔵省では興銀出身の[[結城豊太郎]]が蔵相に担がれ、山田龍雄は大阪造幣局へ、[[広瀬豊作]]や長沼らも飛ばされ、長沼も[[広東省|広東]]へ異動となった<ref>『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P34 ~ </ref>。[[1938年]]12月、南支海軍特務部、翌[[1939年]]9月、[[興亜院]]華中連絡部書記官<ref>[[書記官]]とは[[課長]]の当時の[[官名]]。</ref>・広東初代事務所長に着任し、[[民族服#中国|支那服]]をまとって、主に中南支方面で特務工作任務を担う“長沼機関”を作った<ref>『長沼弘毅』(長沼弘毅追悼録、長沼源太発行) P169 </ref>。この頃に[[里見甫]]らと知己となる。日本軍の隠れ蓑として上海にあった里見の宏済善堂を通じた[[阿片]]売買を、[[岡崎嘉平太]](当時[[大東亜省]]参事官)らと終戦間際になって止めさせようとしたが、[[塩沢清宣]](陸軍大佐・特務部員、元[[侍従武官]]、のち中将)から干渉が入り頓挫した<ref>『阿片王 <small>満州の夜と霧</small>』([[佐野眞一]]、[[新潮社]]、2005年11月30日) P166</ref>。