「古海忠之」の版間の差分

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[[1945年]]8月16日朝、甘粕が、満映理事長室で「ウィスキーの会」を催すにあたり、国務院のなかでは、特に親しかった古海と[[関屋悌蔵]](厚生部次長)の二人のみを招いた。それが最後の自殺をする前のお別れの会であることが知られるところとなり、古海は甘粕の自殺を防止すべく説得に当たってきたが、その甲斐も無く古海及び大園長喜(甘粕と憲兵同期、興安北省次長から満州農機具会社理事長)宛の遺書だけが遺された<ref>『甘粕大尉』(角田房子) P291 ~ </ref> 。
 
程なくして[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]に捕らえられると、主な軍官吏と共に[[シベリア抑留]]される。酷寒の過酷な抑留生活中には、満州国の政策決定に関与してきたことから、ソ連軍により「[[反動]]」より重い「[[戦犯]]」に認定された。そのためもあって、[[ハバロフスク]][[ラーゲリ]]では、古海・下村信貞(外交部次長、対ソ戦準備容疑でソ連にて獄死)・井上忠也([[大同学院]]長)・高橋康順([[満州国参議府]]参議)らが「[[民主運動 (日本)|民主運動]]」「反軍闘争」の“当て馬”として将官ラーゲリから一般ラーゲリに移され、「おまえなんか、シベリアの[[白樺]]の肥やしにでもなれ」との言葉を投げつけられたことや、(同胞の)下士官や兵隊らの[[吊し上げ]]や虐めの対象とされたこと、それぞれ後年に至るまで障害が残る程、死の淵を彷徨う寸前に至るまでもっとも重い労働を課されたことなどを自著で綴っている<ref>『忘れ得ぬ満州国』 (古海忠之) P213 ~ P214</ref>。
 
[[1950年]]、[[八路軍]]の下、[[撫順戦犯管理所|撫順監獄]]に移送される。衣食住などの待遇面ではソ連時代のそれと比べ際立って改善されつつも、「認罪」など自主的な思想改造学習(ないし[[洗脳]])を課され<ref name=tada>これについて古海は、「[[中国共産党|中共]]から帰った日本人は <中略> 洗脳された者も少なくない。<中略> 中共の戦術は良く考えられ、細かいところまで行き届いている。」と後年述べている。 『忘れ得ぬ満州国』 (古海忠之) P250</ref>、[[1963年]]2月まで戦犯として[[囚人]]の身にあった。同年3月、日本に帰国。満期を残しての帰国理由として、高度経済成長の途上にあった日本との関係改善のために、[[岸信介]]など「右派」と近かったのが古海自身だったからだともしている。[[撫順戦犯管理所]]には、八路軍と激闘を繰り広げた[[鈴木啓久]](元陸軍中将、元[[第117師団 (日本軍)|第117師団]]長、同年5月釈放・帰国)などあわせて11人が残っていた<ref name=tada />。