「ヤン1世 (ポーランド王)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m r2.6.4) (ロボットによる 変更: hu:I. János Albert lengyel király |
編集の要約なし |
||
26行目:
| 母親 = [[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト・フォン・エスターライヒ]]
}}
'''ヤン1世オルブラフト'''([[ポーランド語]]表記:Jan I Olbracht(Albrecht) / [[リトアニア語]]表記:Jonas Albrechtas
== 生涯 ==
[[Image:Jan Olbracht.jpg|thumb|left|180px|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]
ヤン・オルブラフトはポーランド
1492年、父の死によりポーランド王位を継承した。一方、弟アレクサンデルの[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]位継承に伴い同君連合が一時的に解消されたことで、ポーランド国家財政は著しい損害を受けたため、地方の下級貴族([[シュラフタ]])の牙城である[[セイミク]]のような地方議会の激しい敵意を招き、補助金を国王による彼らへの追従姿勢によって捻出する傾向が強まった。
ヤン1世は[[オスマン帝国]]に対峙するキリスト教世界の覇者としての地位を望み、時代状況は彼の野心に味方していた。兄ウラースロー2世はハンガリーと[[ボヘミア王国|ボヘミア]]の国王として[[中欧]]に大きな影響力を振るっており、ライバルの[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が1492年に[[モスクワ大公]][[イヴァン3世]]と結んだ同盟に匹敵する同盟体制の構築を目論んでいた。ヤン1世本人も[[モルダヴィア|モルダヴィア公国]]を属国としていたために、トルコ人による攻撃の脅威にさらされていた。[[1494年]]に[[レヴォチャ]]で結ばれた盟約では、ヤン1世、ウラースロー2世兄弟及び[[
[[1496年]]、戦役のためにヤン1世は大きな代償を払いつつ[[ポーランド王国|ポーランド]]内から80000人の兵士をかき集めたが、軍事計画はシュテファン3世のモルダヴィア軍による[[ガリツィア]]への突然の侵攻によって瓦解した。シュテファン3世が反旗を翻した理由は詳らかでないが、ヤン1世が末弟のジグムントにモルダヴィア公位を与える気でいるという、ハンガリーから流れた誤認の情報を信じたためと思われる。理由はともかく、敵対したモルダヴィアとポーランドは戦争に突入し、モルダヴィア領内に入ったポーランド軍は
[[Image:Gradual of King John Albert.jpg|thumb|right|180px|ヤン1世の[[グラドゥアーレ]]]]
[[ドイツ騎士団]]の新総長となった[[フリードリヒ・フォン・ザクセン (
== 関連項目 ==
50行目:
{{先代次代|[[ポーランド国王|ポーランド王]]|1492年 - 1501年|[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]|[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]}}
{{ポーランド君主一覧}}
{{DEFAULTSORT:やん1}}
[[Category:ポーランド国王]]
|