「テオドロス1世ラスカリス」の版間の差分
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{{基礎情報 君主
|人
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|画像 = Theodore I Laskaris miniature.jpg
|画像
|画像説明 = [[15世紀]]頃の稿本による肖像
|地位 = [[ニカイア帝国|ニカイア皇帝]]
|在位 = [[1205年]] - [[1222年]]
|戴冠日 =
|
|
|出生日 = [[1175年]]頃▼
|次代 = [[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]]▼
▲|出生日 = [[1175年]]頃
|死亡日 = [[1222年]]▼
▲|出生地 = [[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノープル]]
|没地 =
▲|死亡日 = [[1222年]]
|
|埋葬
|継承形式 = 次代
|配偶者1 = [[アンナ・アンゲリナ]]
|配偶者3 = マリー・ド・クルトネー
|
|
|配偶者6 =
|王室 = ラスカリス家▼
|配偶者7 =
|父親 = マニュエル・ラスカリス▼
|配偶者8 =
|母親 = ヨアンナ・カラツァイナ▼
|配偶者9 =
▲|配偶者 = [[アンナ・アンゲリナ]]<BR>フィリッパ・オブ・アルメニア<BR>マリー・ド・クルトネー
|
|
|
▲|母親 = ヨアンナ・カラツァイナ
}}'''テオドロス1世ラスカリス'''(<small>[[ギリシア語]]</small>:{{lang|el|'''Θεόδωρος Α' Λάσκαρης''' (Theodōros I Laskarēs)}}、[[1175年]]頃 - [[1222年]])は、[[東ローマ帝国]]の亡命政権[[ニカイア帝国]]の建国者で、その初代[[皇帝]]。▼
|宗教 =
|サイン =
}}
▲
[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]の大貴族の家に生まれ、[[1199年]]に
それから数年間、駆け出しの国家を取り巻く[[第二次ブルガリア帝国]]などの敵国に付きまとわれる。一方で[[ラテン帝国]]皇帝[[アンリ・ド・エノー]]の打倒運動をしぶとく続け、[[ライバル|強敵]][[トレビゾンド帝国]]皇帝[[アレクシオス1世 (トレビゾンド皇帝)|アレクシオス1世]]を破り、その後も快進撃を続けて、[[ルーム・セルジューク朝]]の[[スルタン]]、[[カイホスロー1世]]に対し逆襲に出る。
治世の末期には
[[1212年]]にアンナ・アンゲリナが崩御すると、テオドロス1世は[[アルメニア]]王女フィリッパと再婚した。だが翌年には信仰上の理由から無効とされ、息子コンスタンティノスは[[廃嫡]]された。[[1219年]]には、ラテン帝国から、[[ピエール・ド・クルトネー]]と[[ヨランド・ド・エノー]]の皇女マリー・ド・クルトネーを皇妃に迎えるが、子宝には恵まれなかった。
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{{1911}}
{{東ローマ皇帝|ニカイア皇帝}}
{{DEFAULTSORT:ておとろす1}}
[[Category:ニカイア帝国]]▼
▲[[Category:ラスカリス家]]
[[Category:東ローマ皇帝]]
[[Category:ラスカリス家]]
▲[[Category:ニカイア帝国]]
[[Category:1175年生]]
[[Category:1222年没]]
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