「カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア」の版間の差分

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| 全名 = カルロ・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイア
| 出生日 = [[1798年]][[10月2日]]
| 生地 = [[画像:Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg{{Flag2|border|20px]] [[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]}}、[[トリノ]]
| 死亡日 = [[1849年]][[7月28日]]
| 没地 = {{PRT1830}}、[[ポルトガル]]
| 埋葬日 =  
| 埋葬地 = [[スペルガ大聖堂]]、トリノ
| 継承者 =
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'''カルロ・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイア'''('''Carlo Alberto''' Amedeo di Savoia, [[1798年]][[10月2日]] - [[1849年]][[7月28日]])は、[[サルデーニャ王国]]の第7代[[サルデーニャ君主一覧|国王]](在位:[[1831年]] - [[1849年]])。元はカリニャーノ公(在位:[[1800年]] - [[1831年]])。
 
== 略歴生涯 ==
=== 王位継承 ===
[[サヴォイア公国|サヴォイア]]公[[ヴィットーリオ・アメデーオ1世]]の弟[[トンマーゾ・フランチェスコ・ディ・サヴォイア|トンマーゾ・フランチェスコ]]に始まる[[サヴォイア家]]の分家[[サヴォイア=カリニャーノ家]]の7代目として、父[[カルロ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|カルロ・エマヌエーレ]]と母[[マリア・クリスティーナ・フォン・ザクセン (1770-1851)|マリア・クリスティーナ]]の間に生まれる。フランス宮廷で王妃[[マリー・アントワネット]]に女官長として最後まで仕えた[[ランバル公妃マリー・ルイーズ]]は大叔母に当たる。
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=== 治世 ===
[[カミッロ・カヴール|カヴール]]を初めとする王国内の穏健な改革論者に近代化政策を推進させるなど、幾分に進歩的な政策を取った。しかしカルロ・アルベルト自身は御世辞にも進歩主義者を喜ばせる様な人格ではなく、急進的な改革運動には常に批判的で、その鎮圧には武力行使も厭わなかった。熱心なキリスト者、戦争好き(玩具の兵隊と遊ぶ事を最も好む気晴らしとした)と、反動的な君主としての要素を強く持ち合わせていたが、気弱で優柔不断な性格が結果的に穏健派の改革論者との協力に結びついていた。彼の家庭教師を務めた[[ジェルベ・デ・ソナズ]]は「道徳的な意思と力が全く欠如している」と評している。[[1833年]]に行われた[[青年イタリア党]]への容赦のない弾圧も、絶対君主としての自負によるところが大きいと言われる。
 
彼の優柔不断な態度は、統治面でも「バランスが良い」というより「一貫性のない」改革を生み出した。法典の近代化を推進しようとする一方で長子相続制や教会裁判所の復活などを盛り込ませたり、近代商業の障害となっていた[[ギルド]]の解体を法律で定める一方で「宗教的儀式への参加」を理由に残す事を認めるなど、改革の効果を薄める行為をしばしば繰り返した。このような行為は対外的に[[正統主義]]の立場を取った事もあり、国内外で彼を孤立させていった。
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=== 第一次イタリア統一戦争 ===
[[ファイル:Carlo Alberto firma lo Statuto (4 marzo 1848).jpg|300px|thumb|1848年3月4日の憲法に署名するカルロ・アルベルト]]
[[1848年]]にイタリア各地で反オーストリア・反王政の暴動が発生すると、これに乗ずる形で[[オーストリア帝国]]に宣戦布告を行う。オーストリア軍は北イタリアに駐屯するイタリア人部隊の反乱や民衆軍の組織立った攻撃に大きく動揺していたが、サルデーニャ王国軍はこのチャンスを全く利用できなかった。その理由はアルベルトと共和派色の強い反乱軍の双方が不信から団結できなかったこと、そしてサルデーニャ王国軍が外征の準備を整えていなかったためである。サルデーニャ軍は確かに優れた軍隊だったが、領土の守備や国内警備にのみ特化していた。故にトリノの[[参謀本部]]は[[ロンバルディア]]地方の正確な地図すら用意できず、ミラノの遠征軍との連絡は不十分なものであり続けた。
 
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ミラノとヴェネツィアの愛国者を見殺しにして結ばれた休戦の後、サルデーニャの兵士や将校には絶望感が蔓延していた。非難の矛先を向けられたアルベルトは、その翌年に全軍を結集してオーストリア軍に決戦を挑んだ(ノヴァーラの戦い)。しかし以前の問題点が何ら解決されないままに、好機だけが失われた状況で行われた戦いに勝機が在る筈もなく、むしろ皮肉にもオーストリアの勝利とアルベルトの権威失墜を決定付ける結果になった。完全に立場を失ったアルベルトは[[ポルトガル王国|ポルトガル]]に亡命、同年死去した。
 
現フランス領の[[アルベールヴィル]]に彼の名(フランス語名はシャルル・アルベール:Charles Albert)が付けられている。
 
==家族==
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==参考資料==
*[[S・J・ウルフ]]著、鈴木邦夫訳『イタリア史 1700年-1860年』[[S・J・ウルフ]]著 [[法政大学出版局]]、2001年
 
{{サヴォイア家|[[サルデーヴォイア=カリニャ王国|サルデニャノ家]][[サルデーニャ君第7代当一覧|王]]/[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]|[[18311800]] - [[1849年]]}}
{{サヴォイア家2|[[サヴォイア家]]家長|1831年 - 1849年}}
{{先代次代|カリニャーノ公|[[1800年]] - [[1831年]]|[[カルロ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|カルロ・エマヌエーレ]]|―}}
{{先代次代|[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]][[サルデーニャ君主一覧|王]]/[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]|1831年 - 1849年|[[カルロ・フェリーチェ・ディ・サヴォイア|カルロ・フェリーチェ]]|[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]}}
 
{{DEFAULTSORT:かるろ あるへると}}
[[Category:サルデーニャの君主]]
[[Category:カリニャーノ公]]
[[Category:イタリア統一運動サルデーニャの君主]]
[[Category:金羊毛騎士団員]]
[[Category:トリノ出身の人物]]
[[Category:イタリア統一運動]]
[[Category:1798年生]]
[[Category:1849年没]]