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最初は[[織田信長]]に仕えたが、器量を見込まれて信長の次男・[[織田信雄]]の[[家老]]に任じられた。妻は[[北畠具教]]の娘で、信雄の妻の姉にあたり、義冬は信雄の義弟である<ref>『織田家雑録』、『重修譜』</ref>。
 
天正10年(1582年)、[[本能寺の変]]後、松ヶ島城を預けられ、南方の奉行とされる<ref>『勢州軍記』</ref>。同年1月13日、大坂での[[津田宗及]]の茶会に出席している。
 
信雄が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と対立するようになると、秀吉は義冬・[[岡田重孝]]・[[浅井長時]]ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた信雄によって3人共殺害された。秀吉は義冬らの殺害を契機に[[小牧・長久手の戦い]]で信雄と干戈を交えることとなる。