「街灯の下で鍵を探す」の版間の差分

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不経済 (会話 | 投稿記録)
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:本当に重要なところはどこか分かっているが、そこは分析する方法がない。そこで、光が当っているところばかりが研究されている。
 
これを経済学に当てはめると、次の寓意が生まれる<ref>塩沢由典「数学とオカルトのあいだ」『数学のたのしみ』特集「数学にたくす夢」第30、2002年4月、pp.36-42. http://shiozawa.net/ronbun/sugakunotanoshimi.html
</ref>。
 
:新古典派の経済学は最大化、均衡などの理論枠組みによって数学的な定式化が進み、社会科学としてはもっとも理論的・科学的という理解がある。しかし、実態は数学的に定式化できるところのみを研究しているのみで、経済の本当に重要なところは研究されていない。
 
たとえば、Martin Shubikは、次のように引用している<ref>Shubik, Martin 1970 A Curmudgeon's Guide to Microeconomics," ''Journal of Economic Literature'', '''8'''(2), p. 415.</ref>。
 
:一般均衡理論はうたがいなくすばらしい知的成果である。しかし、それはいかなる意味でもニュートン力学の水準にはない。何千という財とサービス(しばしばシステムの全体までも)が売られている巨大で複雑な諸企業の世界では、われわれが(最善の場合でも単純な極限事例をカバーするにすぎない)単純なモデルに固執しているのは滑稽なことだ。わたしはあの酔っ払いの話を思い出す。かれは、夜、鍵をなくして、それを探すために街灯の下で時間を費やしていた。鍵を失くしたのはそこから50ヤード離れていたが、街灯の下がなにかを見ることのできる唯一の場所だったのである。