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[[曹髦]](高貴郷公)が[[皇帝]]となると、王沈は曹髦に「文籍先生」と呼ばれ、散騎常侍・[[侍中]]・典著作となった。曹髦は[[司馬望]]・王沈・[[裴秀]]・[[鍾会]]らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。
 
この頃、王沈は[[荀顗]]・[[阮籍]]とともに『[[魏書 (曖昧さ回避)|魏書]]』を編纂したが、時勢に多々配慮した内容であり、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に内容で劣ると言われている。[[劉知幾]]は『[[史通]]』曲筆篇の中で王沈が時流におもねった記述をしたことを責め、[[陳寿]](伝を立て劉知幾は[[蜀|蜀漢]]正統論者であが、陳寿は蜀漢の遺臣でたって子孫に賄賂りながら『[[三国志_(歴史書)|三国志]]』で魏求め正統としいう歴史家など)とともに、「記言の奸賊、戴筆の凶人」と罵倒し「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と吐き捨てている。
 
[[260年]]、[[司馬昭]]の専横に憤った曹髦は司馬昭を討伐する計画を立て、王沈・[[王業]]・[[王経]]に計画を打ち明け、協力を要請したが、王沈・王業は司馬昭に密告したために、司馬昭は警備を強化した。曹髦は側近や寄せ集めの[[近衛兵]]を率いて、司馬昭にクーデターを起こしたが、司馬昭の側近の[[賈充]]に殺された。この事で王沈は不忠であるとして大いに批判された。王沈は[[尚書]]・監[[豫州]]諸軍事・奮武将軍・豫州[[刺史]]となった。
 
その後、征虜将軍・持節・[[都督]]江北諸軍事・博陵[[侯]]となり、魏が[[蜀]](蜀漢を平定した時は対[[呉 (三国)|呉]]防衛に貢献した。
 
[[司馬炎]]が王になると、[[御史大夫]]・守[[尚書令]]・[[給事中]]となった。司馬炎が皇帝となる時、[[羊コ|羊祜]]・[[荀勗]]・裴秀・賈充とともに中心的役割を果たした。司馬炎が皇帝となると、[[驃騎将軍]]・[[録尚書事]]・散騎常侍・統城外諸軍事となった。また、博陵郡[[公]]に封じられたが、固辞して受けなかった。