「ピエトロ・アレティーノ」の版間の差分

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「ティータ Tita」と呼ばれた美しい[[遊女]]で何人もの芸術家の[[モデル]]となった女性を母として、[[アレッツォ]]の[[孤児院]]で生まれる。保護者も友人もなくお祈りができるくらいの教育しか受けなかった。13歳の時に母親から金を盗んで[[ペルージャ]]に逃げ、ある製本屋の部屋を借りて住む。19歳の時に[[ローマ]]の富裕な商人[[アゴスティーノ・キージ]]に下男として雇われ、ついで後の教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]であるサン・ジョバンニ[[枢機卿]]の召使いとなる。その屋敷を出て[[ロンバルディア]]地方を放浪しつつ放蕩生活をおくった末に、[[ラヴェンナ]]で[[フランチェスコ会|フランチェスコ派]]の[[托鉢僧]]になりすます。[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]が教皇となるとその取り巻きの芸人となることを目指してローマへ赴き、小姓となる。教皇の推薦状を元に[[ミラノ]]・[[ピサ]]・[[ボローニャ]]・[[フェラーラ]]・[[マントヴァ]]を渡り歩き、文学者として[[エステ家]]と[[ゴンツァーガ家]]を後ろ盾とするまでになる。[[1524年]]に「教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]への讃歌 Laude di Clemente VII」という詩を書き、初めての年金を与えられた。
 
[[ヴェネツィア]]を根拠地として、全イタリアの著名人を誹謗中傷で攻撃するか、大げさに褒め称える詩や書翰を発表することでその富と名声を築きあげる。庇護者として[[ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ|ジョバンニ・ディ・メディチ]]、[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]、神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]を数えることができ、教皇[[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]]によりサン・ピエトロの[[騎士]]に任命され、[[年金]]だけでも820[[スクード]]を受け取る資産家であり、一生涯に使ったお金は10万[[フラン (通貨)|フラン]]をこえるといわれる。[[ルドヴィーコ・アリオスト|アリオスト]]により「王侯の懲らしめの鞭、神のごとき」と形容されたアレティーノは敵も多く、何度も殺されかけたが、最期は自宅で卒中で倒れたとも笑いすぎて死んだともされている。
 
文筆家としてのアレティーノは厚顔無恥で卑劣であると非難され続けていたが、彼は自分の書いたものには必ず署名をし、無条件に公開した。このような態度をさして、歴史家の[[ヤーコプ・ブルクハルト|ブルクハルト]]はアレティーノを「ジャーナリズムの元祖」と評する。当時からその[[ポルノグラフィ|ポルノグラフィック]]な内容と表現の放埒さで悪評高かった代表作『気まぐれなおしゃべり I capricciosi ragionamenti』は、現在では邦訳がある。