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* 元年([[729年]])
**8月5日、瑞亀の出現により天平と改元する。
**8月10日、[[藤原光明子]](29・正三位夫人)を皇后に立てる詔が出される。
**8月24日、[[聖武天皇]](29)が朝臣達を集めて光明皇后立后の訳を説明する。
**京・畿内の班田司を任ずる。
* 2(年([[730)]])
**9月、諸国の[[防人]]を停止する。
* 3(年([[731)]])
**3月、[[諏方国]]を廃して、[[信濃国]]に併合する。
**8月5日、[[舎人親王]]が諸司の四等官以上に「朝廷が人材不足だから良い人があれば推薦せよ」と言う。
**8月11日、[[藤原宇合]](38)、[[藤原麻呂]](37)、葛城王(48・[[橘諸兄]])、[[鈴鹿王]]らが[[参議]]になる。
* 5年([[733年]])
**正月、[[県犬養橘三千代]](正三位)が死亡し、従一位を贈られる。
* 96年([[737734年]])
**[[717年]]出発の遣唐使[[玄昉]]と下道真備(40・[[吉備真備]])が[[種子島]]に帰り着く。
**天然痘の流行で、[[藤原四兄弟]](武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が相次いで死亡する。
*7年([[735年]])
**[[新田部親王]]と[[舎人親王]](60)が死亡する。[[新羅]]から[[天然痘]]が九州に上陸する。
*8年([[736年]])
**故・県犬養橘三千代と故・[[美努王]]の息子・葛城王(53)と佐為王が臣籍に下って橘宿禰を名乗り、橘諸兄・[[橘佐為]]となる。
*9年([[737年]])
**4月、天然痘で参議[[藤原房前]](57・参議)が死亡する。
**7月、同じく天然痘で藤原麻呂(43・参議)と[[藤原武智麻呂]](58・右大臣)が死亡する。
**8月、同じく天然痘で藤原宇合(44・参議)が死亡する(=[[藤原四兄弟]]が全て死亡)。橘佐為も死亡する。僧侶を宮中に召集して大般若経・最勝王経を読誦させる。玄昉が[[僧正]]となる。
**9月、鈴鹿王(参議)を[[知太政官事]]に、橘諸兄(54・参議)を[[大納言]]に任命する。
**12月、故・武智麻呂の遺児[[藤原豊成]](34)が参議になる。
**12月27日、玄昉が聖武天皇(37)の生母[[藤原宮子]](皇太夫人)の病を祈禱によって治療する。国名を「大倭」から「大養徳」に改める。
* 10年([[738年]])
**113日[[聖武天皇]](38)[[光明皇后]](38)の娘・阿倍内親王(21・[[孝謙天皇]])が皇太子となる(=女性皇太子の唯一の例)。
**7月10日、故・[[長屋王]]を誣告した[[中臣宮処東人]]が[[大伴子虫]]に斬殺される。
**十二12月、故[[藤原宇合]]の長男[[藤原広嗣]](従五位下)が[[大宰府]]に左遷される。
* 12年([[740年]])
**5月、聖武天皇(40)が相楽にある橘諸兄(57)の別荘へ行き、宴会で諸兄の息子[[橘奈良麻呂]](20)に従五位下を授ける。
**[[藤原広嗣の乱]]
**8月29日、大宰府の藤原広嗣が、国政を批判し、玄昉と下道真備を排除するよう求める上表をする(=[[藤原広嗣の乱]])
**9月3日、広嗣の上表が[[謀叛]]と断じられ、[[大野東人]]が大将軍として1万7千人の兵を率いて征討に向かう。
**10月19日、旅行のため[[伊勢国]]に仮宮を造るよう天皇が命令する。
**10月23日、逃亡中の広嗣やその弟[[藤原綱手]]が五島列島で逮捕される。
**10月26日、「思うところあって関東に行く。そのような時ではないが仕方の無いことである」との勅が天皇から大野東人に発せられる。
**10月29日、天皇、皇后、[[元正上皇]](61)、諸兄らとともに平城京を出発する。
* 14(742)年、[[大宰府]]廃止
* 15(743)年5月27日、[[墾田永年私財法]]施行
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**[[元正上皇]](69)が崩御する。
* 21年([[749年]])
**聖武天皇(49)、光明皇后(49)、[[藤原宮子]](皇太夫人が出家する。
**[[陸奥国]]から[[金]]が出たと伝えられる。